新卒広告サラリーマンのつぶやき

経済的な自由を求めて

絵とかプログラミングのはなし

 
集団競技とか集団授業とか何よりも嫌いだった。
授業とかまともに受けて役に立ったということがほとんどない。
大学の講義で唯一面白かったのは教授の雑談やホリエモンみたいなゲストスピーカーの講義くらいだ。
テニスや卓球、スピードスケート、スキーのような個人競技は好きだったけど、団体戦は死ぬほど嫌いだった。
 
 
 
 
 
自分じゃない誰かの意思で動くって心底合わないなって感じている。
もちろん人間は社会的環境に置かれている限り、誰しもがなんらかの意思のもと行動しているのかもしれない。
であったとしても、少なくとも自分の判断で動けない不自由さがかなりストレスとなる人間が一定数はいるだろう。
 
 
 
逆に与えられた仕事を完璧にこなすプロフェッショナルとしての適性を持つ人間もおり、
それはそれで幸せであるだろうし、どちらが正しいとは言えない。
 
 
 
 
高橋まつりの事件に関してはもはや憶測でしかないが、自分の意思と全く反した強制力の中で、不正を働かざる得なかったという過度なストレスで生じたものであるような気がしてならない。
 
 
もちろん長時間残業や、上司からのパワハラなどの総合的な要因の中で鬱状態となり、衝動的に自殺という行為を選んだということは合理的解釈である。
 
また、自殺する前に退職すればよいといった意見が根強く広がっているが、これは自殺という行為の要因に対する不勉強から生じる誤解である。
 
厚生労働省によれば自殺の事由で最も多いのは病気によるものである。
これを細かく見ると生活習慣病精神疾患が含まれている。
 
しかし、どれも共通するのは病気に悩んで自殺という道を選んでいるという点である。
これはデータには現れない背景であるが、まぎれもない事実である。
 
なぜなら自殺するのはいかなる場合も自分であるからだ。(自分の意思とは限らない。)
 
しかし、病気により鬱状態となれば、自殺という道を選ばざる得ない状況に人間は追い込まれる。
病気は時として人を絶望へと追い込む。
 
そしてキルケゴールいわく絶望とは死に至る病である。
 
つまりなんらかの要因で人間は鬱状態となり、自殺へと追い込まれるわけで、その状況下では合理的な判断などできるはずがないのである。(*つまり自殺の要因の大部分が病気によるものというデータの病気とは鬱のことを指す。鬱とは正確には鬱状態のことを指し、病気として明確に存在しているものかどうかは医師によって様々な意見がある。)
 
 
 
 
高橋まつりはデジタルアカウント部に配属されていたと報道されている。
業務上、先日発覚した電通によるネット広告不正事件(http://www.goodbyebluethursday.com/entry/dentsu-fraud)に関与していた可能性も十分考えられるだろう。
そのような中で自分の意思に反して不正に関与さざる得ないという状況に置かれた場合に受けうるストレスは想像を絶するものだろう。
 
 
 
 
 
資本主義社会では人間を大きく分類すると資本家か労働者に分けられる。労働者は資本家の意思で働き、自由を拘束される代わりに賃金を得る。
 
一方資本家は労働力や新たな資本に投資することで、資本をさらに増やすことができる。労働は決して投資を上回ることができない。これはピケティが21世紀の資本論内で指摘し、世界中で議論を呼んだが資本主義社会の中では至極当然の論理である。
 
 
また、現在の企業法の背景に紀元前の奴隷制度が影響しているというのは定説である。
労働者というのは資本家により身体と精神の自由を拘束される奴隷なのだ。皆、望んで奴隷として働くため、就活をしている。
 
 
しかし、奴隷として働く意思を持った学生は自身の奴隷性に気づかない。
ゆえに皆、奴隷として幸せを得る。それが間違っているわけではない。
大抵皆、奴隷だとは思っていないし、ワークライフバランスをコントロールしながら、ある程度の自由を享受し、幸せであると思っている。それはそれでいいのだろう。
 
 
人の幸せの定義は人それぞれである。使われる側であるほうがパフォーマンスを発揮しやすい人が大半である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
子供の頃から絵を描くのが好きだった。
 
 
真っ白なキャンバスに絵を描いていると何もかも忘れて没頭することができた。
 
たまたま自分の描いた絵が全国展に行った時は、誇らしかった。
 
 
でも、そんなことはどうでもよくて、自由に誰からも干渉を受けずに絵を描き続けることが、幸せだった。
 
 
それは絵を描くことに何一つ強制性も、制限もないからだ。
 
 
真っ白なキャンバスに描く絵には完成させるべきゴールはなく、何もかもが自分で決めることができた。抽象画と言い張れば、鉛筆で一筆書くだけで、作品として認められる。
 
 
この自由さが自分には何よりも居心地の良い環境であった。自分で全てを作り出すことができるのは、絵しかなかった。
 
 
 
 
 
 
 
社会に出れば自分の意思で全てを決めることなどできない。
 
 
それは自分にとって何よりも苦痛であるだろう。自分は子供なのだろう。いつまでたっても大人になれない。
 
 
学生時代のほとんどをバイトに費やしたが、どの仕事もやりがいはまるでなかった。
 
自分の自由がないからだ。
 
もちろん何一つないわけではない。
 
工夫し、改善できることはたくさんあったし、そうゆう工夫が実って、なんらかの良い影響が与えられたことはよかった。
 
 
しかし、ずっともやもやしていた。だからほとんどのバイトも長続きしなかったし、長続きしてもずっと続けたいとは思えなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
来年4月からこのまま内定先に入社するかどうかはわからないが、いずれにせよ同じような問題に直面するだろう。
 
自身に与えられた裁量がいくら大きくても、それは与えられたものでしかない。
 
与えられた仕事を与えられた裁量の中で行うことに私は決して評価されるようなパフォーマンスを発揮することはできないだろう。
 
 
 
かといって自身で仕事を作り出し、高いパフォーマンスを発揮する自信も能力も今のところない。また、資本がない以上、なんらかの資本に寄生する以外方法はないだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今現在40℃近い高熱と腹痛で今月から続けていた仕事も休職させていただいている。資本家でない限り、労働しなければ生きてはいけないが、労働をし続けると限界を迎える可能性もあるだろう。
だから私は資本家か個人事業主になりたいし、その道を目指さなければならない。映画監督にもお笑い芸人にもなれなかった。
つまるところ、根性なしの私は途中で諦めてしまったのだ。個人事業主になるとしたら作家だろうか。簡単な道ではないだろうし、小説を書くことはあまり向いてなさそうだ。文藝春秋社で芥川賞に関わりたいという思いで入社試験を受けたが3次試験で落ちてしまった。いつか芥川賞を取れるだろうか。それよりはまだ資本家になるほうが現実味がありそうだ。
 
 
 
しかし、ホリエモンのように資本を引っ張っていく力はない。社長に求められる人や金を集める能力に私は乏しい。
 
 
 
となると、何をするべきで何になれるのかわからなくなってくる。少なくとも今は生きるために労働するしかない。
 
 
 
それかやっぱプログラミングを勉強しよう。