新卒広告サラリーマンのつぶやき

経済的な自由を求めて

自慰行為とセックス

なんで生きているかというと、大半の人は幸せになるためと言う。

人それぞれ価値観があり、生き方も生きる目的も多様であるので、是非を問うことはできないだろう。

 

では、幸せとはなんだろうか。

幸せの定義とは明確に存在するのだろうか。

秋元康が幸せの定義を30までに決めていない人は幸せを享受できないと言っていた気がするので、もう一度幸せの定義を再確認したいと思う。

 

幸せとは、快楽とは異なる。

快楽は脳内の主に前頭葉前野部におけるドーパミン放出量に寄与する。

ドーパミン放出量を増やせば快楽に浸ることはできるので、ただひたすらに覚せい剤を吸引し続ければ「快楽」を満たすことはできる。

あるいはセックス、オナニーなどによって絶頂に達すれば快楽は得ることができる。

また、スポーツやコミュニケーションなどでも脳に「快楽」を感じることは可能だ。

意外なところでいうとカレーライスを食べることも、腸内刺激により脳内のドーパミンを増やすことができるので「快楽」を感じさせる行為である。

 

しかし、カレーライスを食べてオナニーをしても幸せとは限らない。

私はおそらく人生の幾つかの時間においてカレーライスを食べた後にオナニーをしたと思うが、決して幸せではなかった。

 

自身の幸せの定義が定まっていないのにもかかわらず、他者の幸せに寄与することは難しい。

けれども、世の中には誰かを幸せにすることが自分の幸せであるという主張をする者がいる。

もちろん、それは賞賛すべき素晴らしい思想であると思うし、そのためにモチベーション高く行動できるならば、幸せな人なのだと思う。

ただ、はっきりと言いたいのは「誰かのために何かすること」は「誰かのため」ではないということだ。

誰かのために何かしたいと思うこと、何かすることは100%の自分の「エゴ」である。

自分の幸せのために、誰かの幸せに寄与したいのである。

必ず、自分の幸せのためにが前に来るはずだ。

社会のために、誰かのために、そういうモチベーションで行動できる人は素晴らしいと思うし、全く批判するつもりはない。

素晴らしいかどうかは別として、自分以外の何かのために、実益として実際の行動が結びついているのだとしたら、事実、何かに貢献していることは間違いない。

 

だからそういう人にとっての幸せとは「他者の幸せのために貢献すること、自分以外の何かのためになること」なのだろう。

こういう幸せの定義は、私はありだと思う。

かくいう私もどちらかというとこの定義側に立つ人間だ。

 

人間は幸福を追求する生き物だ。

幸福追求権は自然法として元来の人間が持っている普遍的な権利だ。

では幸福を追求するとは何か。

 

大きく分けて幸福追求とは以下のように二分されるのではないかと思う。

 

・自分の幸せのために生きること

・(自分の幸せのために)自分以外の幸せのために生きること

 

前者の生き方が後者の前提に来るという話は先ほど書いた。

ここでいう自分の幸せのための行為、自分以外の幸せのための行為というのはあくまで表面上のものだ。

 

例えば前者にはお金持ちになる、やりたいことをやる、結婚して平和な家庭を築きたい、多くの友達に囲まれて過ごしたい、周囲から評価されたい、といった自己実現行為が含まれる。

もちろん結婚とは自分以外の誰かの幸せを願う行為であるので、後者にも被るのだが、ここでいう前者の行為とはあくまで、自分の生活上つながりのない他者が介在しない場合においての行為である。

いわゆる自分の幸せ、大半のひとはこちら側を幸せのあり方に定義していると思う。

というか後者の場合においても前者の幸せをなしにして、幸せとは言えない。

だから明確にはこの分類は不要であるし、曖昧である。

 

後者の場合は、社会のあり方を変えたい、世界を変えたい、自分と同じような境遇の人を救いたい、恵まれない人々の生活を変えたい、などがある。

何度も言うがもちろん後者と前者に明確な線引きはない。

なぜなら、後者も前者もエゴイズムには変わりないからだ。

どちらが立派であるとか、そのような評価にも意味はない。

 

ただ、前者の幸せがすべてであるとは私は思わない、というだけだ。

世の中ではなぜか、年収、人間関係、職業、世間体、キャリア、結婚の有無、など幸せのロールモデルがさも存在しているかのように、個人を錯覚させようとしている空気がある。

 

フリーター、正社員、派遣社員契約社員

こんな枠組みは社会や会社が規定した契約形態の違いでしかない。

フリーランス個人事業主、起業家、資産家、いうなれば働き方など無限であるし、個人を規定するものは何もない。

個人の幸せとこのような表層的な名称は一切結びつかない。

幸せにロールモデルは存在しないし、個人の幸せを追求する行為だけが、「幸せ」では決してない。

他者の幸せが個人の幸せに結びつくことだって多分にあるし、社会の幸せのために自分が犠牲になることで、自分が幸せになることだってあるだろう。

 

自分の幸せを追求する行為はオナニーとなんら変わらない。

オナニーは環境の変化とは無関係になされる。

環境がどうなれ、オナニーをすることはできるし、オナニーは環境に変化を与えない。

変化を与えているように錯覚しているだけである。

人間の99%が所属するオナニー団体に、何故入ろうと思うのだろうか。

より良いオナニーのために環境を変化させようとしているセックスを何故行おうとしないのか。

もちろん、セックスはオナニーの一部である。

ただどうせ同じ時間を過ごすのであれば、オナニーに付随して、オナニーの伴うセックスをしてもいいのではないだろうか。

 

セックスを一度もせず、人生を終えることに、一体何の意味があるのだろうか。

意味はあるのかもしれないが、それはオナニーに関わったごく一部の環境の変化でしかない。

ティッシュを汚し、自分の周りの床を汚し、部屋をイカ臭くする。

ただそれだけだ。

同じオナニーであるのであれば、部屋を汚し、野外で喚き、あるいは複数人とハプニング的にプレイをし、いろいろな人の感情に影響を与え、社会の仕組みを変え、世界を変えるセックスをするべきなんではないだろうか。

 

大きな視点で見ればどちらも大した意味はないのかもしれない。

単なる一哺乳類の生殖行為である。

 

で、あれば処女よりヤリマンがいい。

童貞よりヤリチンがいい。

 

世界を変えるのは常にセックスを追い求めた者だと、私は思う。

世界を変えるために、セックスをしよう。

 

 

なぜ会社を辞めれないのか?

なぜ人は辞めたい会社を辞めれないのか?

 

人によって様々な理由が考えられるが、大きく分けると以下のように考えることができる。

 

①金銭的な問題

②人間関係的な問題

③能力的な問題

 

①金銭的な問題

おそらくこれが最も多いだろう。

会社を辞めた場合、生活を律することができないという不安。

十分な蓄えがあるわけでもなく、明日の生活にも困窮の心配がのしかかる。

このような状態では辞めたくとも辞めるわけにはいかないだろう。

人間は意識的無意識的問わず、生命の維持に向けて最大限の労力を注ぐ。

十分な金銭を稼ぐ力が乏しく、明日の生活も心配するようであれば、

会社を辞めサラリーを供給されない恐怖から逃れることはできない。

そもそもその状態では会社に飼われているといった存在でしかなく、

その意味においては自立などしていないだろう。

また、会社からサラリーをもらっているという意識では自分で金の流れを把握することもできず、稼いでいるというよりおこぼれをもらっている状態である。

おこぼれをもらっている人間は一生飼い主の意向に逆らえない。

飼い犬は解放されても自ら檻に収容されていく。

 

ではこの問題を解決する方法はなにか。

それはただ一つ。会社に頼らず、会社とは無関係に金銭を得る経験をすることである。

初めは小さな対価でもいいだろう。

大事なのは会社とは関係ない個人としてのフィーを得るということにある。

稼ぐという行為は遠投のようなものかもしれない。

初めは数メートルしか投げれなくとも、慣れてくれば何十メートルと飛ばすことに

労力を割く必要は無くなる。

思考の自動化が行われ、自らの労働力を効率よく使うことができる。

ひとによっては「やりたいこと」があるかもしれない。

ただこの場合の金銭を得る経験は「やりたいこと」とは無関係のほうがいいだろう。

なぜなら「やりたいこと」をやることが目的ではないからだ。

金銭を得る経験が目的であるので、その手段においてノイズを増やしてはならない。

「やりたいこと」は金銭を蓄えてから集中しても遅くはないだろう。

そのこと自体、金銭を得ることで変わるかもしれないのだから。

変わらなかった時は本当にやりたいことを十分にやればいい。

 

②人間関係的な問題

これは③にも通づることであるが、人間関係的な事情で辞めることを言い出せない、もしくは辞めれない、辞めるという行為ができないといった問題である。

人間関係は人間の大部分が気にする重要な要素である。

人間関係は良好であっても不良であっても、それに伴う様々なストレスや問題が生じる。

例えば人間関係が良好な職場では辞めるといったことをなんとなく言い出しにくい雰囲気があったりする。

私は現在これに近い。

人間関係が悪くて辞める、辞めたいといった辞める側の理由に人間関係の不遇は多い。

けれども逆に辞める理由が明確にある場合は、人間関係が不遇であるほうが辞めやすいのではないだろうか。

人間関係が良好であればあるほど、言い出しにくい。

「なんで辞めるの?」といった声がどこからか聞こえてくるような、そんな不安に駆られる。

あるいは「周囲がいい人すぎて、辞めるなんて言い出すのが申し訳ない」といった思考に陥るとこの状態になるだろう。

 

③能力的な問題

これは単純に能力がないから辞めれない。

辞めるという行為ですらある程度の能力が必要である。

まずは辞めるという決断をする決断力。

優柔不断な人間、自己否定的な人間はなかなか踏ん切りがつかない。

踏ん切りがついてもなかなか実行ができない。

つまり行動力がない。

決断力と行動力、このどちらのバランスを欠いても辞めることは難しいだろう。

そもそもそんなことを考える前に辞める人は辞めている。

辞めるという決断の前に辞めるという行為があり、それが行動力である。

だから、多くは辞めたいと心の中では思っていても何年も会社にしがみつき、

タイミングを逃すのである。

しかし、そういうタイミングを窺う人に限って、行動を起こすと後悔するのである。

タイミングを見誤ったと。

 

そもそも良いタイミングなんてないのだ。

辞めたいと思ったとき、辞めた時。

それが最良のタイミングであり、それ以外の選択肢はあらかじめ存在しない。

 

人生には二度はない。

人生は時間の連続性の中に存在する。

時間に区切りなどは存在しない。

どのタイミングであっても、選択した結果である。

選択しない人生は、生きているとは言えないだろう。

ありふれた言葉であるが生かされている人生である。

生かされる人生に意味がないとは言わない。

どちらを選択するか、あるいは選択しないことも選択の結果だ。

人間は時間の連続性の中で選択の連続をし、日々を生きている。

だからこそ、選択を拒んでならないし、選択は常に目の前に訪れる。

訪れた選択に対して何が最良かなんて、選択しなければわからない。

 

だからこそ、信じられる選択をすべきなのだ。

自分の、唯一無二の二度と訪れない、人生なのだから。

海賊になることができるのに、どうして海軍に入るんだい?

 

 

 

 

 

 

発達障害という言葉を見ると、ついつい目を向けてしまうし、ドキッとしてしまう。

私自身、20歳の頃、自分がそういうカテゴライズをされる側にいることに気づいた。

私が匿名ブログに投稿したアスペルガーであることを嘆く記事は、年間ランキングでトップ10に入ったらしい。

 

でもだからといって、発達障害というレッテルを自ら貼ろうとはしなかったし※、そういう認識は自分だけがしてればいいと思って診断書は受け取らなかった。

 

実際は発達障害というレッテルをもらうために診断にいった。問診も検査も受けなくとも絶対的な確信があり、そこに自らを寄せにいった感は否めない。そのレッテルで私はある意味救われたし、発達障害でなかったらおそらく死んでいた。

 

そもそも発達障害の正式な診断ができる医師は日本にほとんどいない。

現在はほとんどブームのように簡単に発達障害の診断を下し、あるいは診断されなくとも、自分自身が発達障害だと思い込む人が多い気がする。

もちろん、自身が発達障害であるという認識を持ち、特徴を理解することで、自分の性格の問題ではないということで救われるのならなんら問題はない。

発達障害というものに対する社会的な理解が、進めば進むほど、当事者にとっては生きやすくなるだろう。

 

しかし、だからといって発達障害であってもなくても、その人の人生における問題はつきまとう。

発達障害を理由に、幸せになれない人生を歩んでしまっても、人生は一度きりなのだ。発達障害を言い訳にして生きても、辛いだけだろう。

そもそも発達障害を障害とする社会的状況のほうが、よっぽど障害である。

 

発達障害の多くは一般的な総合職としてのサラリーマン人生を全うするのは難しいかもしれない。

私もそうである。

おそらく、いや気持ちとしては今すぐにでも、会社を辞めたいと思っている。

 

 

www.gifted.academy

 

 

このスクール、もっと早く知りたかった笑

私は診断書は受け取ってないので、おそらく受講資格はないのだろうけれど、なんだかすごく悔しい。

このスクールの代表は私と同じ慶應義塾大学の在籍で、同じ1991年生まれだ。

そして私と同じようにADHDであると言っている。

私は自分が起業したり、人を巻き込む力がなかったり、プログラミングをうまく習得できないのは自分自身の発達障害に一因があると思っていたのだろう。

どこかでそれを言い訳にしていた。

しかし、違ったようだ。

代表と同じような背景を持つのに、私が「できない」のは、やはり私自身の能力、性格にやはり問題はあるのではないだろうか。

もちろん、障害の程度の問題や人生の背景、環境、あらゆるものは違うのは比較することはできない。(北海道の模試を受けていたと書いてあるので、北海道出身?だとすれば出身地も同じだ。)

ただ、非常に悔しく、辛い。

一方で、希望でもある。

発達障害を言い訳にしなくてもいいのだ。

言い訳にはできないのだ。

発達障害者は一般的な生き方を歩むのは難しい。

逆に言えば海賊になることができるのだ。

海賊になることができるのに、どうして海軍に入るのだろうか。

 

Why join the navy if you can be pirate?

 

 

※追記 

 

blog.livedoor.jp

 

5年も前なのに検索したら、あったよ黒歴史

さすがに盛りすぎだと思うけれど、このとき書いていた人生観というか今後の未来予測はかなり当たっていると思う。結局そのうち嫌われたり、人間関係を継続的に気付けないのは永遠に治らなそうだ。もう今は受け止めてるけどね。

自分を卑下して同情を買うような文章力はうまいんだな俺は、昔から。

 

 

2012年はてな匿名ダイアリー名作ランキング50選

 

年間ランキング35位だった。だいぶ盛ってた。

 

このときはなんとか解決出来るかなんて淡い期待をどこか抱いて大学生活を続けることにしたけど、何も解決しないで何も身につかず25歳になってしまったな。人間関係について言えば、さらに悪化した気がする。まあ、もういいけどね、うん、仕方ない。

大学辞めときゃって思うけど、辞めてもあんまり変わらないよなー。

俺は幸せにいつかなれるのかな。

 

月額20万円あれば、夢を追えるか?

自由に生きない時間は無駄

人間は、自由だ。

人生は自由に生きることができるはず。

好きなことだけして、ずっと生きていくべきなんだと思う。

けれどだいたい4割の人は好きな仕事をしていないらしい。

現在の私もそうである。

そういふひとには大きく分けて二つあって、好きなことがない場合と好きなことはあるけれど金銭的な問題で働いている場合だ。

後者の場合、もはや働くという行為は人生を拘束している。

自由に生きるべき人生が働くという行為で不自由にされている。

人間は好きなことをするべきだと思う。

金銭的な問題で不自由を強いられるのはとてももったいない。

社会的にも個人の人生においても損失が非常に大きい。

もしすべての人が好きなことを仕事にできたならば、生産性は大きく向上するのではないだろうか。

 

月20万円の保証

そういう意味でも月額20万は保障する必要がある。

20万あれば、東京でも不自由なく暮らせるだろう。

もちろん娯楽は大してできないが、最低限度の暮らしはできる。

私は一流大学を出て新卒で就職したが、手取りで17万程度である。

これでも一応生活はできているのだから、一人暮らしでも独身なら十分である。

この程度の経済的基盤さえあれば、集中的に創造的な行為に従事できる。

キャリアチェンジも流動的になるだろう。

かといって現在の日本の社会保障にそれを求めることは難しいだろう。

月額20万はそこまで大きな金額ではないが、一人で稼ごうとすれば大変だ。

ここでいう稼ぐはコンビニバイトなどではなく、受注などで個人が金の流れを掴みながら自分で得る対価のことである。

サラリーマンでも、会社に依存して生きていれば、バイトと本質的にはなんら変わらない収入の獲得をしている者は多いだろう。

そういう生き方には今後限界が訪れる。もはや、会社も社会も個人とかなり乖離して残り続ける。個人は個として生きていく力を身につけていかなければ、生き残ることは難しい。

個として生きる力

個人として生き抜く力を身につけていかねばならない。

これは私が10年間ずっと考えていることだ。しかし、未だその力が自分にはなんら身についていない。今、会社を辞めたら、私はアルバイトに従事するしかないだろうか。

個人として生きる力とは具体的にはなんだろうか。

プログラミングやweb技術だろうか。

コピーライティングなどの文章技術だろうか。

営業などのコミュニケーション能力だろうか。

はたまた経営者に求められるリーダーシップや人を巻き込む力だろうか。

湧いて出てくるエネルギーだろうか。

すべて正しいだろうが、すべてに備わっていなければならない当然の力はなんだろうか。

それは、自分で考える力である。

自分の頭で思考し、自分で取捨選択し、自分で人生を選び抜く力。

自分の行きたい人生や夢を明確にし、そこに邁進する行動力。

行動力とは極めて個人的な力だ。

誰かのせいだとか、環境だとか、外部的な要因を言い訳にしていては、行動などはできない。

行動するために何が必要か自分で考え、最適解ではなくとも、行動という行為を選び取る。

考えて、行動するのか。行動して、考えるのか。

人によって順序は別であっても、必ずこの二つが求められる。

逆に行動すること、考えること、このどちらかが抜けていたとしたら、

個人として生き抜くのは難しい。

 

大企業に属する、エリートコースを歩む

ここからは極めて個人的な話であるが、私は大学に就職するために行ったのではない。

慶應大学は世間的に一流と呼ばれる大学であり、就職すれば大半は日本を代表する一流企業に行く。

しかし、私はそこに対して何も羨ましいとは思わなかった。少なくとも大学に入る前は。エリートコースとは自分がかなり離れた存在であることは、すでに幼少期から自覚していたので、どちらかというとドロップアウトした成功者の人生に憧れた。

だから、お笑い芸人や映画監督、ホリエモンのような経営者に強い興味を抱いたのだ。

しかし、結局は就職してしまった。

そして、大企業ばかりを受けた。

大学で長期間過ごすにつれ、学歴に対するコスパを求めるようになってしまった。

要するに、もったいないと感じてしまったのだ。

なんて、卑しい人間なのだろうか。

結局のところ、超大企業には入れず、大企業の子会社に就職した。なんともパッとしない、一番望まないキャリアを踏むことになった。

そしてまた、大企業いいなあなんて思ったりする。

一方で、月額20万あれば、自由に生きようとも決めている。

フリーランスで、あわよくば自動収益化して20万稼げれば、キャリアプランはがらりと変わる。

大学とはモラトリアム期間であり、様々な環境に挑戦して、積極的にやりたいことを見つけるものとされている。しかし、その期間私は全くお金がなく、やりたいことに飛び込むことはなかった。つまるところ、行動力が乏しかったわけである。

けれど、やはり人間は自由に生きるべきである。

25歳は世間的にギリギリなのかもしれないが、人生50年と考えればまだ半分もある。半分もやりたくないことをやるより、やりたいことをやる10年のほうがよっぽど充実した人生であろう。

私は幼少期からずっとものづくりをしてきたし、それは本当にそれが楽しかったからだ。好きかどうかなんて考えたこともない。おそらく私はものづくりに関わっていないと楽しくない人間である。だから、そこにストレートに突っ込むべきだ。

非常に遅いのは重々自覚しているが、私はどのものづくりにすべての人生を捧げたいかが未だに不明確である。だから後5年はせめて、自由に好きなことにチャレンジして生きたいと思う。もちろん、月額20万と資金があればである。

具体的には以下の分野にパラレルキャリアを踏んでいくだろう。

 

・映像制作→デジタルハリウッドCGコースor映像制作会社

・漫画→漫画家アシスタント

・プロダクトデザイン→東京大学大学院or産業技術大学院大学

情報工学→IT系事業会社

 

人間は一つの分野しか歩めない、一つの道にしか進めないなんて、そんな常識に縛られていきたくはない。

得意不得意、向き不向きも、もはや本質的ではない。

金銭的不自由がなければ、いますぐ飛び込んでいくだろう。

現実的には資金として300万、月額20万の経済的自由がなければ難しい。

しかし、資金の問題で、時間を消費すると考えると、実にもったいない。

もったいなさすぎて、生きるのが非常に嫌になってくる。

ある意味ポジティブな意味で、死にたいと思うのである。

このままでは私はうだつの上がらないサラリーマンになるだろう。

どちらにせよ成功しないのならば、私はおもしろい人生を選択したい。

おもしろいというのは成功と失敗どちらにもある。

人に話した時に、1行で終わる人生は、もうやめよう。

 

結構みんな思考停止して働いていませんか

新卒で就職し、何年、何十年も同じ会社で働いている人がいる。

結構な割合、日本人全体で言うと半分ぐらいはそうなのではないだろうか。

 

この会社勤めの間に何か疑問を抱いたり、考えたり、しなかったのだろうか。

そんなはずは、さすがにないだろう。

いろいろ悩んだり、考えたり、会社をやめようとしたはずだ。

しかし、結局のところ、そうはしなかった。

 

これは行動力がないとか決断の先送りだとか、そんな言葉でくくれる程単純な問題ではないだろう。かといって、じゃあどうなのかと言われるとよくわからない。

自分には到底考えられないからだ。

 

ミュージシャンになれるならミュージシャンになりたいし、芸人になら今でもなりたい。サラリーマンとしてせいぜい1000万程度を目指して何十年も働くよりよっぽどいいと思う。借金2000万あっても、やりたいことをやれる人生は幸せだ。客観的にどうとかではなく、自分がどう思っているかが重要なのだから。

つまるところ、価値観の違いなのである。

仕事にやりがいいわいわよりも、現在の安定というものが余程大事な人が大半なのだ。

生活のために働いているのである。それが「ふつう」の価値観なのだろう。

では生活はなんのためにあるのだろうか。なんで、生きているのだろうか。

そこに主体性はあるのでしょうか。

生きたいと思って、生きているのだろうか。

多分、ちょっと違う。

大半の場合は、いきたいとかいきたくないとか考えずに、なんとなく自然と、生きているのである。

 

自殺する人間はバカだというけれど、自殺も考えずにのんべんだらりと自分が主体的に選択をして生きていると考え、集団に帰属しながら働いている大勢よりも自殺を少しでも考えるひとのほうがよっぽど賢いと僕は思うのですが、いかがでしょうか。

 

働くというのは、人生の大半の選択のはずだ。働く以外の選択肢だってあるし、働き方にだって人の数だけある。サラリーマンという選択を否定するつもりは全くない。主体的に能動的選択でサラリーマンになることは素晴らしいと思う。または自己保全の手段として組織に属し、一定の給与をもらうという形態で生きるのも悪くはないだろう。守るべきもの、愛すべきもの、背負っていく責任があれば大抵は最善の策と言える。けれども、なんとなく、周りに流され、サラリーマンを続けているのはどうだろうか。やりたくもない仕事をやり、なんのスキルも身につかない。組織を離れればなんの汎用性もない人材にしかならず、価値は社会人歴という意味不明な経歴だけ。

そんな人間になりたいのでしょうか。そんなことを考えるのは、バカでしょうか。

 

まさしく今の自分こそが、その思考停止中のサラリーマンの一部であるということに、今現在愕然としているところです。

 

プロフィール

あまりにも体たらくな人生を振り返ってみる。

 幼少期

1991年、北海道に生まれる。

幼少期より東京に強い憧れを抱く。

 

ものづくりが好きで、テレビでわくわくさんを見ながら、工作をするような子供だった。圧倒的なインドア派で、それでもこの頃は友達もいて、ごく普通の子供。

小学二年生になるまでに北海道内を転々とし、小学2年生から札幌の隣町に引っ越す。

小学生

度重なる引越しにより、元々の性質と相まって、極度の人見知りとなる。休み時間はいつも一人で机の上で漫画やイラストを書いて時間が経つのを待つようなそんな小学生時代。嫌な思い出が非常に多く、とにかく集団行動ができない子供だった。そんなこともあり自分の将来に疑問を抱き、校長室に置いてあった13歳のハローワークを読んだりして、将来サラリーマンにならないことを決める。

 

中学生

卓球部に入る。まさしくダサいキモいオタクみたいなイメージの卓球部員。本当は美術部に入ろうかと思ったけど、運動部が良いみたい風潮に流され、ヒエラルキーの最下層に。まったく運動センスはなく、教室でも目立つことはないカーストの最底辺にいた。とにかくこの現状を変えたくて、どこか遠くに行きたい一心で勉強し、札幌の高校へ。

 

高校生

テニス部に入ろうとしたものの、練習についていけず、他の部活にもなんとなく入れなくて気がつけば居場所がどこにもない状態に。このころから自分の社会不適合さに薄々気がつき始める。勉強もパッとせず、図書館で本を読んだり、携帯でネットをしたり。たぶん、この時期から今までライフスタイルは全く変わっていないような気がする。高3になり、文系か理系か決められず、決める意味もわからないものの、東京に行けばなにかが変わる気がして、東京の大学をいくつか受ける。勉強を全くしてないのでもちろん不合格、代々木ゼミナールに入学。

 

浪人時代

予備校には夏前に行かなくなり、家に引きこもってニート状態になる。またもや全く勉強せずに早慶を受けまくり全敗。親の金をドブに捨てつつ、後期に出した横浜国立大学を受けに横浜へ。ちょうど東日本大震災が起きて受験は中止に。受けていたら100%落ちていたので、不謹慎ではあるものの地震のせいという口実に救われた形になった。予備校は正式に辞め、4月からは晴れてニートに。

 

ニート時代

とりあえず短期バイトをしてみたものの、労働環境にすぐに嫌になる。しばらくしたくないと思いながらも求人誌を買いあさっては電話をかけたり、かけなかったり。深夜に起きて、朝寝る生活を繰り返す。重松清の疾走に出てくる兄のようだなと思って、これでボヤ騒ぎなんか起きたら間違いなく自分のせいだろうとか考える。その後ネットカフェのアルバイトに受かるが、自分の社会不適合さを遺憾無く発揮し、周囲との関係が最悪に。辞職する。その後は本格的な引きこもり。深夜にポテトをあげていると、キッチンペーパーに引火し、天井を焦がす。まさに疾走にでてくる兄となり、母親が帰宅後怒鳴り散らしたのにパニック状態となり、そのまま疾走。翌朝帰る。数日後父親が帰ってくることになり、ボヤで焼け焦げた天井は元の通りに母が修理していたが、今の自分を見て父親に怒鳴られるのが怖くなり、父が帰る当日の朝、家出。JR東日本パスで単身東京を目指す。

 

宅浪時代

なんとか東京に着いたはいいものの特に目的もなくぶらぶらと過ごす。所持金も尽きてきた頃、家を契約しようと不動産に行くが、そのまま親に電話することとなり、怒鳴られる。母親に怒られ、家に戻ることに。親が振り込んだ口座から金を引き出し、フェリーで帰港。母親と話し合い、東京で宅浪することに。高田馬場学生寮で、食事付きとのこと。実際は築100年のボロアパートのようなところで、食事も管理人が作る質素なもの。学年ビリから医学部に受かったという本を出している著者に家庭教師になってもらうが、一回2万という高額な授業料に嫌気がさし、2ヶ月で辞めてもらう。その後もぐだぐだとやる気を出したり出さなかったりで受験勉強をする。結局、2度あることは3度あるというのだろう、センター試験は惨敗で、私立一本に絞る。そもそも私立一本で初めから勉強しておくべきなのだが、長年染み付いた貧乏性が、私立大学受験という選択肢を排除してしまうのである。というか親には国立行く姿勢を見せないといけないのが貧乏人の大学受験。実に効率が悪いのだが、私立に絞った結果、半年間勉強していた数学や理科はなんの役にも立たなかった。最終的に受かった大学は英語のみの受験で入れたので、英語のみ勉強していれば現役で受かった気がする。人生のコスパが実に悪いのだが、これは今も相変わらずな気がするのでここでは触れない。私立もなかなか難しく、明治大学中央大学などのいわゆるマーチは惨敗。手応えはあったものの、社会はセンター以外ほとんど無勉強であったし、国語も私立対策はしていないので当然といえば当然。唯一、センター利用で東洋大学に受かったことにわかったのが2月の19日あたり。人生で初めて大学に受かったので、すこぶる嬉しかった。その後慶應環境情報学部の入試があり、合格する。当日は非常にだるくて、受験会場に行くのをやめようかと思っていたが、実際受けてみると非常に手応えがよく、小論文の試験時間が終わった頃には合格を確信していた。一週間後、見事合格がわかる。もちろん、そのまま入学手続きを済ませる。散々親には迷惑をかけたけれど、終わり良ければすべて良し、ホームランをうっとけば失敗はチャラになる理論で、自分を納得させる。今でも自分はこのタイプの思考なので、人間関係を地道に気づいたり、コツコツ頑張ることができない。いわゆるダメ人間。慶應SFC合格は、ある意味人生最悪の失敗だったかもしれない。といっても受かったものは仕方ない。このときはかなり浮かれていたが、そういうダメ人間は、痛い目を見続ける人生を送る羽目になる。

 

大学時代

もういい思い出はまったくない。

大学一年生の頃に大失敗を犯す。

立ち直れないぐらい絶望する。なお、今も継続中。

その後、休学。

休学後は色々と立ち直ろうと努力するが結局は繰り返し。

朝起きて、いや夕方起きて、ダラダラ過ごして、深夜までネットして寝る。

こういうルーティンをほぼ4年繰り返す。正確には半年休学したので4年半。

途中、あまりに暇なのでお笑いの養成所に通うが、大学と同じく、馴染めずに辞める。

なお、元相方は未だに続けている模様。

23歳までに芥川賞を取れなければ死のうと決めていたはずなのに、小説を一本も書ききれないまま、24歳となり、大学卒業。

就活を超適当にする。テレビ局、出版社をメインに受ける。OB訪問も一切やらずに受けてしまったのが今思うと最悪だった。任天堂の最終面接まで行ったのはいい思い出。最終面接までなら他にもスクエニNTTドコモとか。最終まで行って落とされるのはなにか決定的にダメなやつだと判断されてる気がして、すごく落ち込んだ気がする。最終的には産経新聞のカメラマンに内定をもらうが、辞退。某広告系会社の子会社に入社。なんでこんな選択をしたのか、今考えるとありえない。まあ、カメラを触ったこともほとんどなかったので、ある意味よかったのかもしれないが。結局、就活なんてクソだということを肌で実感する。

 

現在

現在、25歳。広告系企業子会社サラリーマン。特技、なし。スキル、なし。実績、なし。幸せ度、10。本当になにももっていない、なにものでもない、ただの人間になってしまった。小学生の頃に恐れていた大人の姿。誇れるのかどうかわからないが、あるのは学歴だけ。慶應義塾大学卒という肩書き。一番いらない、肩書き。とっとと中退すればよかったのだけれど、結局、自分の能力のなさを自覚していたので、いやなにも考えずにとりあえず卒業したのだ。卒論は白紙で出した。まったく意味のない、人生である。

芸人養成所に通っていた話

3年ほど前にいわゆるお笑い芸人の養成所に通っていました。

 

大学に通いながらのWスクールの形ですが、週1回19時からでありましたので、サークル感覚でほとんど負担にもならなかったです。

 

入る前は養成所なんてハードルが高く、どんな場所か全く想像もできなかったのですが、いたって普通の環境でした。

私は中学生ぐらいの頃から生き方について考えており、お笑い芸人という職業に強い関心がありました。

いつかは必ずお笑い芸人になろう、そのために東京に行こうと考えていたものの、なかなか行動力がなく、気がつけば22歳となっていました。

 

22歳は社会的には若者ですが、芸人としてのキャリアを歩み始めるには決して早い方ではありません。

年齢的にはギリギリであり、高い入学金や授業料もあって、かなり大きな決断の末に入学を決めました

 

そもそも大学に入学したのも浪人という名のニート生活を送っていたので20歳と遅く、ふらふらと人生をただ消費していたので、大学も中退しようと考えていました。

大学に入ったのも東京にいって、芸人になるための口実に過ぎなかったと思います。

 

入学すると同じように芸人を目指している同期が多くいました。

元ミュージシャンやアマチュアとしてすでに芸歴を重ねている者もいましたし、高校卒業したての若者やフリーターも大勢いました。

自分と同じような大学生や大学卒業したての人も多かったです。

30過ぎのおじさんや還暦間近のおばさんもいました。

様々な境遇、バックグラウンドを持った人々がいる中で、必ずしも本気で芸人になろうとしていない者も相当数いたと思います。

 

事実、初回の講義日には60人ほどいたのに、次回の講義には50人、1ヶ月もたつと40人ほどになっておりました。

学費は相当高額のはずなのに、です。

また、養成所と言っても講義で何かを教わるというよりは、自分でネタを書いてネタ見せするのが中心であり、養成所以外の時間の使い方がいかに重要であるか問われます。しかし、人生をかけて芸人を目指している者が集まるわりにはネタ自体あまり練られておらず、素人丸出しのクオリティが多かったです。これは自分も含めてです。

 

結局のところ、テレビに映る芸人のイメージそのままで、芸人なんて遊んでふざけているだけみたいな軽い気持ちで取り組んでいる人が多いと感じました。

実際、すべての時間を自分の身を削るぐらいの心意気でネタや稽古に捧げれば、売れる売れないは別として、人前に出て恥ずかしくないレベルにはなれるはずですし、養成所に通った以上そうならないといけないでしょう。

 

半端な気持ちでプロになれるほど甘い世界ではありません。

芸人は厳しい世界だとは言いますが、それはどのような分野でも同じで、半端な軽い気持ちで目指そうとする腑抜けた人間が集まり、半端な覚悟だった自分が圧倒されてしまうだけなのではないでしょうか。

本気で取り組めば、売れるかはわかりませんが、他の芸人志望者を圧倒できるほどのネタは誰でも作れるはずです。

しかし、みんな少しなめていたり、やる気がなかったり、覚悟が足りなかったりするのです。

 

 

これはみんなと言いましたが、自分にも特に当てはまります。

私は大学生という安全地帯から芸人の世界に飛び込もうとした。

そもそもこれは間違いでした。

 

すべての人がそうだとは言いませんが、少なくとも私は甘かった。

 

自分は彼ら(養成所の同期)とは違って失敗しても、途中でやめても帰る場所がある。こんな気持ちが頭のどこかにあったのでしょう。

そんな腑抜けた人間が芸人になれるわけがありませんし、売れることなんてありえません。

 

結局私はコンビを組んでいた相方と解散し、年が明ける頃には養成所に行かなくなりました。

 

それでも養成所に通って芸人を目指していたという経験を存分に利用し、就活などでアピールしました。

このような珍しい経験は往往にして面接官の興味を引き、私はいくつかの企業から内定をいただきました。

実態は半年程度週一度カルチャースクール気分で新宿に出向いていただけの、何も実績も経験も積んでいない大学生なのに。

 

養成所に通っていたことですら、名乗るのがおこがましい。

芸人の卵ではなく、芸人の卵を目指していたにもかかわらず途中で投げ出したのが私です。

本気で芸人を目指している皆さんには同類として思われたくないはずです。

何かを目指すというのは、ただ思うだけではなく、実際の行動と熱意が伴っていなければなりません。

そして熱意の大きさは行動に比例します。

その行動には結果が相対的にどうかはわかりませんが、絶対値として見えてくるでしょう。

番組にどのくらい出たとかは自分だけの努力では決まりませんが、ネタを何本かいたとか、舞台にどのくらい出たとかは自分の行動で決まります。

ネタも舞台も数えるだけしか経験していなかった私の熱意というのは、やはりその程度のものだったのだと思います。

 

なんでもすぐに投げ出してしまうという自分の傾向はすでにこのころには明確に現れてしまいました。

売れなくても芸人という道を歩み続ける人はやはり人間として魅力的です。

フリーターとして数十年間生活を続けるという自分の未来に不安を感じてしまった時点で、私は覚悟が足りませんでした。

 

それでいて今でもテレビで芸人を見ているとうらやましく思ったり、解散した相方がネット番組に出ていたりすると、心の中が張り裂けそうになります。

 

今は社畜としてバイト程度の給料で生活していますが、長くは続かないでしょう。

こうなってくるとやはりあのときの選択について、思いはせてしまうわけです。

 

大学を中退しとけばよかった、とか芸人養成所をやめなければよかったとか。

最近だと別の内定先にいけばよかったとか。

 

こうやってあるはずもない別の選択肢について考えることは無駄でしかないとわかっているにもかかわらず、考えてしまう。

 

人間としての弱さや能力のなさを自覚しながら、養成所に通っていた頃のことを思い返しています。

お金があれば会社辞めますか?

 

サラリーマンとして働くことのメリットとは一体なんでしょうか。

 

トマ・ピケティは「21世紀の資本論」において、数多くの歴史的資料を分析した結果、資本主義下では資本収益率(r)は経済成長率(g)を上回ると主張しているそうです。

 

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つまり、労働は投資を上回ることは決してないわけです。

労働するより投資したほうが経済的にははるかに豊かになれるので、この事実は頑張るだけ報われるという資本主義の根本的な考えを破壊することになるはずでした。

しかし、この事実が広く世界中に知れ渡っても一向にして就業志願者の数は減りませんし、サラリーマンが一斉に会社を辞めたという話は聞きません。辞めさせられた話はよく耳にしますが。

 

もし家畜として飼われている羊を羊小屋から解放してあげたとしても、彼らはおそらく羊小屋へ戻ってくるでしょう。あるいは戻らなかった羊たちは自分で狩りをする能力もなく、餓死してしまうかもしれません。

 

となると社畜として働くサラリーマンはリストラされるとまた会社員に戻ろうとするか、餓死してしまうのでしょうか。

前者は大半の方に当てはまるかもしれませんが、後者はどうでしょう。

今の日本で餓死することは0ではないにしても、そんなに恐れなくても良さそうです。

一方で自分で狩りをする能力に関しては自信がない方が多いと思います。

自分もそうです。

学歴や大企業の社名に惑わさられて自分の能力を客観的に直視できないと、錯覚に陥りますが、明日会社をクビになって生活費を確保できる汎用性の高い能力を身につけているひとはそう多くないはずです。

 

私は慶応義塾大学という世間一般に見てそこそこの大学出身ですが、決して頭はよくないですし、能力は高くないです。

能力とは人脈を築くことのできる行動力やコミュニケーション能力、リーダーシップ、集中力、マネジメントの力や人柄、発想力、技術力その他さまざまな人間力が問われます。

このような能力はむしろ学校教育の中より、社会の中で育まれるものだとも言えます。

勉強にうまく適応できず学校教育からドロップアップしたような人の中には、社会適応能力が高い場合も多く、社会的成功をおさめる方々も多くいるのは事実です。

 

で、あればやはり能力を磨くことが大事なわけですが、リーダーシップや行動力は幼少期からの環境や長い鍛錬の末磨かれ、また人柄も含め元々のポテンシャルにも由来します。

となると、自分の能力が凡、凡以下と感じている、明日クビになったら餓死しちゃうかもって思っている社畜はどうすればよいのでしょうか。

このまま生きることになんの不満も抱かず、幸せであれば無問題ですが、日々死に際限界で会社にしがみついている場合、辞めるにも辞めれません。

しかし、日曜日の夜が憂鬱になるようであれば、高橋さんの二の舞になりかねません。

 

あいにく私はまだ自分が凡であるとか、凡以下であるというほどの仕事をしていないので、そういう意味では会社員であることに不満を感じてはいません。しかし一方で、全くこの会社で仕事をしたいとは思えないので、そう近くないうちに退職する運びになるでしょう。

 

私が会社をまだ辞めないのはお金が理由です。

今すぐ空から100万円が降ってくれば、少し悩んで辞めるでしょう。

300万降ってくれば1週間後には退職届を出してますし、1000万であれば即日辞めます。

私は能力はないので次の日から無収入ですが、とりあえずはプログラミングをしこしこと勉強していると思います。少し金銭的な余裕があればバイトをするにしてもキャリアアップにつながる仕事ができますし、自分への投資としてスキルアップも可能です。

お金が与えてくれる少なくとも餓死することはないだろうという楽観的観測が私に退職という踏ん切りをつけてくれます。

 

自分の人生を考えたときにこのまま会社に居続ける人生というのは想像ができません。25歳という新卒にしては相当遅い年齢の私にとって時間は何よりも貴重です。その貴重な時間を消費している感覚は、相当な焦りと苦しみを生みます。25歳の時間に対する対価として、納得のできる経験を積む必要があります。

 

あなたはお金があれば会社を辞めますか?

辞めるとしたらいくらですか?

 

 

 

 

新卒で広告会社に入ったはなし

新卒で広告会社に入った。

 

クリエイティブができるんじゃないかと期待して、大手新聞社の内定を蹴り入社した。

 

 

しかし、実態は代理店の下請けである。

 

代理店には同じ大学の同期が多く、自分の会社との待遇や仕事内容の違いに愕然する。

 

将来のキャリアを考えた時、この会社で歩んでどのようなスキルが身につくのか考えてしまう。

 

そもそも自分は何の為に大学に入ったのだろうか。

 

いっかいのサラリーマンになりたいと一ミリも思わなかった10代。

 

そんな思いを抱えながら就活まで何もない自分のままでいた。

 

少しの間だけ芸能養成所にも通ったが、途中でやめてしまった。

一言で言えば、サラリーマンになれない人間が、芸能界でやっていけるわけないのである。

 

 

しかし、きっぱり諦めることもできず、なにかクリエイティブなことがしたいという思いを断ち切れず、一般企業には興味を持てず、マスコミ関係やエンタメ業界ばかりを受けた。

結果、新聞と制作会社、映像関連企業に内定を頂いた。

 

新聞はカメラマンでの採用だったがなんとなく堅い気がして、積極的な思いで今の会社に入社することを決意した。

 

しかし、今抱えている思いは「転職したい」である。

 

 

会社のせい、ではない。

 

自分はずっとそうなのだ。

どこにいっても自分はどこかそこに適している気がしない。自分の居場所ではないと感じてしまう。

 

それは自分自身に問題があるとしても。

 

 

だから、組織で生きることには向いていないのだろう。

 

しかし、組織で生きることが向いていなくても、私は私として生きていかねばならない。

私のような人間が生きにくい世の中であってはならない。

どのような人間でも、その人にあった居場所はある。

誰にでも、その人次第の生き方がある。

 

 

組織で働くのが向いていなくても、組織の上で働くことに適している人もいる。

組織の外で働くことに長けている人もいる。

 

自由に、自立して生きることに大きなポテンシャルを発揮する人もいる。

 

 

そもそも、或る日突然、なんの能力もない、何も貢献していない新卒の新入社員に初任給として20数万を与えることに違和感を覚える。

 

会社からしてみればそれは未来への投資であり、労働法で企業が果たすべき義務でもある。

 

社員は初めての給料をもらい、自立したと勘違いする。

 

しかし、自立はしていない。

親元から離れ、生活費が自分の所得で賄われることが、自立ではない。

 

自立とは自分でお金を稼ぐことである。

 

ただ会社からサラリーを与えられているだけでは、自分でお金を稼ぐことに全く当てはまらないだろう。

それは新卒社会人でも、何年のキャリアを歩んだ社会人でも同等である。

意識として、サラリーを頂いているのでは、いつまでたっても会社なしで立つことはできないだろう。

 

今日会社が潰れたとして、明日から生きながらえることができないのならば、それは会社に自立させていただいていただけである。

 

 

自分でせめて所得を稼ぐスキルを身につけなければならない。

 

しかし、スキルを身につけるのにそんな時間をかけてはいられない。

 

スキルを身につけるのが目的ではなく、自立することが重要である。

 

そして自立して、やりたいことをやらなければならない。

 

 

人生は一度しかないからだ。

 

 

このブログを書くことを続けていく限り、私は自立し、夢をかなえる。

 

 

 

 

絵とかプログラミングのはなし

 
集団競技とか集団授業とか何よりも嫌いだった。
授業とかまともに受けて役に立ったということがほとんどない。
大学の講義で唯一面白かったのは教授の雑談やホリエモンみたいなゲストスピーカーの講義くらいだ。
テニスや卓球、スピードスケート、スキーのような個人競技は好きだったけど、団体戦は死ぬほど嫌いだった。
 
 
 
 
 
自分じゃない誰かの意思で動くって心底合わないなって感じている。
もちろん人間は社会的環境に置かれている限り、誰しもがなんらかの意思のもと行動しているのかもしれない。
であったとしても、少なくとも自分の判断で動けない不自由さがかなりストレスとなる人間が一定数はいるだろう。
 
 
 
逆に与えられた仕事を完璧にこなすプロフェッショナルとしての適性を持つ人間もおり、
それはそれで幸せであるだろうし、どちらが正しいとは言えない。
 
 
 
 
高橋まつりの事件に関してはもはや憶測でしかないが、自分の意思と全く反した強制力の中で、不正を働かざる得なかったという過度なストレスで生じたものであるような気がしてならない。
 
 
もちろん長時間残業や、上司からのパワハラなどの総合的な要因の中で鬱状態となり、衝動的に自殺という行為を選んだということは合理的解釈である。
 
また、自殺する前に退職すればよいといった意見が根強く広がっているが、これは自殺という行為の要因に対する不勉強から生じる誤解である。
 
厚生労働省によれば自殺の事由で最も多いのは病気によるものである。
これを細かく見ると生活習慣病精神疾患が含まれている。
 
しかし、どれも共通するのは病気に悩んで自殺という道を選んでいるという点である。
これはデータには現れない背景であるが、まぎれもない事実である。
 
なぜなら自殺するのはいかなる場合も自分であるからだ。(自分の意思とは限らない。)
 
しかし、病気により鬱状態となれば、自殺という道を選ばざる得ない状況に人間は追い込まれる。
病気は時として人を絶望へと追い込む。
 
そしてキルケゴールいわく絶望とは死に至る病である。
 
つまりなんらかの要因で人間は鬱状態となり、自殺へと追い込まれるわけで、その状況下では合理的な判断などできるはずがないのである。(*つまり自殺の要因の大部分が病気によるものというデータの病気とは鬱のことを指す。鬱とは正確には鬱状態のことを指し、病気として明確に存在しているものかどうかは医師によって様々な意見がある。)
 
 
 
 
高橋まつりはデジタルアカウント部に配属されていたと報道されている。
業務上、先日発覚した電通によるネット広告不正事件(http://www.goodbyebluethursday.com/entry/dentsu-fraud)に関与していた可能性も十分考えられるだろう。
そのような中で自分の意思に反して不正に関与さざる得ないという状況に置かれた場合に受けうるストレスは想像を絶するものだろう。
 
 
 
 
 
資本主義社会では人間を大きく分類すると資本家か労働者に分けられる。労働者は資本家の意思で働き、自由を拘束される代わりに賃金を得る。
 
一方資本家は労働力や新たな資本に投資することで、資本をさらに増やすことができる。労働は決して投資を上回ることができない。これはピケティが21世紀の資本論内で指摘し、世界中で議論を呼んだが資本主義社会の中では至極当然の論理である。
 
 
また、現在の企業法の背景に紀元前の奴隷制度が影響しているというのは定説である。
労働者というのは資本家により身体と精神の自由を拘束される奴隷なのだ。皆、望んで奴隷として働くため、就活をしている。
 
 
しかし、奴隷として働く意思を持った学生は自身の奴隷性に気づかない。
ゆえに皆、奴隷として幸せを得る。それが間違っているわけではない。
大抵皆、奴隷だとは思っていないし、ワークライフバランスをコントロールしながら、ある程度の自由を享受し、幸せであると思っている。それはそれでいいのだろう。
 
 
人の幸せの定義は人それぞれである。使われる側であるほうがパフォーマンスを発揮しやすい人が大半である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
子供の頃から絵を描くのが好きだった。
 
 
真っ白なキャンバスに絵を描いていると何もかも忘れて没頭することができた。
 
たまたま自分の描いた絵が全国展に行った時は、誇らしかった。
 
 
でも、そんなことはどうでもよくて、自由に誰からも干渉を受けずに絵を描き続けることが、幸せだった。
 
 
それは絵を描くことに何一つ強制性も、制限もないからだ。
 
 
真っ白なキャンバスに描く絵には完成させるべきゴールはなく、何もかもが自分で決めることができた。抽象画と言い張れば、鉛筆で一筆書くだけで、作品として認められる。
 
 
この自由さが自分には何よりも居心地の良い環境であった。自分で全てを作り出すことができるのは、絵しかなかった。
 
 
 
 
 
 
 
社会に出れば自分の意思で全てを決めることなどできない。
 
 
それは自分にとって何よりも苦痛であるだろう。自分は子供なのだろう。いつまでたっても大人になれない。
 
 
学生時代のほとんどをバイトに費やしたが、どの仕事もやりがいはまるでなかった。
 
自分の自由がないからだ。
 
もちろん何一つないわけではない。
 
工夫し、改善できることはたくさんあったし、そうゆう工夫が実って、なんらかの良い影響が与えられたことはよかった。
 
 
しかし、ずっともやもやしていた。だからほとんどのバイトも長続きしなかったし、長続きしてもずっと続けたいとは思えなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
来年4月からこのまま内定先に入社するかどうかはわからないが、いずれにせよ同じような問題に直面するだろう。
 
自身に与えられた裁量がいくら大きくても、それは与えられたものでしかない。
 
与えられた仕事を与えられた裁量の中で行うことに私は決して評価されるようなパフォーマンスを発揮することはできないだろう。
 
 
 
かといって自身で仕事を作り出し、高いパフォーマンスを発揮する自信も能力も今のところない。また、資本がない以上、なんらかの資本に寄生する以外方法はないだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今現在40℃近い高熱と腹痛で今月から続けていた仕事も休職させていただいている。資本家でない限り、労働しなければ生きてはいけないが、労働をし続けると限界を迎える可能性もあるだろう。
だから私は資本家か個人事業主になりたいし、その道を目指さなければならない。映画監督にもお笑い芸人にもなれなかった。
つまるところ、根性なしの私は途中で諦めてしまったのだ。個人事業主になるとしたら作家だろうか。簡単な道ではないだろうし、小説を書くことはあまり向いてなさそうだ。文藝春秋社で芥川賞に関わりたいという思いで入社試験を受けたが3次試験で落ちてしまった。いつか芥川賞を取れるだろうか。それよりはまだ資本家になるほうが現実味がありそうだ。
 
 
 
しかし、ホリエモンのように資本を引っ張っていく力はない。社長に求められる人や金を集める能力に私は乏しい。
 
 
 
となると、何をするべきで何になれるのかわからなくなってくる。少なくとも今は生きるために労働するしかない。
 
 
 
それかやっぱプログラミングを勉強しよう。
 

24歳のハローワークのはなし

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんつーか、投稿とか初だから、怖いし、誰にもいいねとかお誕生日おめでとうとか言ったこともないSNS人見知りなので、反応してくれる友達とかいないと思うし、誰にも見て欲しくないけど、うずうずしてるので、書く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小学生の時から、サラリーマンになれないと思っていたし、今も思ってるので、するつもりなかったけど、自分の能力考えるとしないと詰むっぽいので、就活した。

 

 

 

 

 

 

 

 

スクエニとか任天堂とか某新聞社とかドコモとか某広告とか、名前知ってるところで面白そうなとこだけ受けまくったら、最終までは上記全部行ってそのうち何社からか内定もらった。意外。コイキングでレッド倒した気分。

 

 

 

 

 

 

 

 

まあ任◯堂とか最終でゲーム弱いです、そもそもwii持ってません、DS持ってません、ゲームやりませんって言ったら落ちたけど、ふつーに。事務のお姉さんが綺麗でした、京都弁ギザかわいい。い◯だっち、もつ鍋ありがとう。

 

 

 

 

大学4年半でやったことといえば、引きこもっていかにお金を使わずに暇を弄ぶかぐらいなんで、企業が見てるのなんて学歴とハッタリという適当な基準でしかないことを、知った。(あと、芸人養成所行ってたことを10000倍ぐらい誇張しただけかな、売りは。)

 

 

 

 

だから、適当ぐらいの気持ちで、適当な結果だと適当に考えてる。

 

 

 

 

 

 

 

ま、最終でこれだけ落ちたのだから、深いところまで見て、こいつは本当に人間的に問題があるという経験と直感にもとづく、判断がされたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

つまるところ、自分はサラリーマンとして不適合者であるという自己分析は、正しかったという確認ができただけでも、就活した意味はあったような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

それでもお金も人脈も、能力もほとほとないわけで、サラリーマンになるかホームインザパークになるとしたら、前者を選ぶしかないので、そこそこ感じのいい会社に入れるのはありがたい、と感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、最近は闇金ウシジマくんみたいな世界で、夕方17時起きで働いていたわけで、音痴であることが役立ったり、学歴とか内定先のブランド力ってすごいなって認識したりしていたけど、自分の中身なんてなにひとつないのに、変に勘違いされるのが煩わしかったり、そんなものにすがるしかない自分のショボさを痛感してた。でも経験的にはいい、一生無縁の仕事だと思ってたし。金はもらってないけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

大抵の人は若干社名を勘違いしているけど、まあいいや。そういうとこでも、あ、やっぱすげえ会社だなっと思ったりしたし、自分みたいな無能にとってはブランドって大事だなって実感してた。

 

 

 

 

 

 

で、とりあえずお金がないと生活できないので、自分なりの全力で一生懸命、毎日働いてるつもりだったけど、一向に金はないし、はよ4月なって、入社したい気持ちが募るばかりであった。

 

 

 

 

 

 

 

そもそも大学を9月に卒業するつもりは毛頭なかったので、大学に抗議に行ったら、脅しにあったので、もうこんな大学辞めてやるって感じで過ごしていたら、卒業証書をもらってしまうはめになった。これは、つまり精神的中退である。だって、卒業論文書いてないし。

 

 

 

 

 

 

 

で、そんな感じで過ごしていたらこの記事

 

 

 

jnakagawa.blog.jp

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これ、いいねしたかったけど、いいねとかしたら内定取り消しになるんじゃないかって気がしてしなかった。(厳密には別の会社だし)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、こういうこと書くと、ばれたらまずいことになると思うけど、でもやっぱ書かずにいられない。それで白紙になったら、それはそれでいいや。今書かなくても、どうせいずれ、クビになるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

某新聞社の面接で記者に必要なものはなんだと思いますかって聞かれて、体力とコミュニケーション能力だと思います!って答えたわけだけど、自分にはそのどちらもないなって思って、自分にないふたつの要素を言った。それで受かったんだから、人間の口から出た言葉ほど信用できないものはないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

要するにこのふたつが文系サラリーマンには必須且つ、唯一の能力であるんじゃないだろうか。で、自分にはどちらもないと思うのが、サラリーマンには向いてないなっと自己分析した所以であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところがどっこい、自分が入社するつもりの会社は、記事にある通り、THEサラリーマン的社風の会社である。知ってたけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でもここまで、とは正直思わなかった。萎える。萌える。萌えー。

 

 

 

 

 

ではコミュ力も体力もない人間が生きるにはどうすればいいか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぶっちゃけ、そんな道はないんじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どっちも最低限は必要。たとえプログラマーでも。いやむしろプログラマーのがそういう能力が必要だったりする。(知らないけど)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でも、今の時代はやはりプログラミングできない人間は、いずれ淘汰されるに違いない。少なくとも、今、会社に所属せず、全く人脈もありませんってなると、クラウドワークスかランサーズで業務委託的感じでプログラミングして、収入を得るぐらいしか思いつかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

というわけで、自殺する前にプログラミング勉強しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

自殺よりはプログラミング。

 

 

 

 

 

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