新卒広告サラリーマンのつぶやき

経済的な自由を求めて

プロフィール

あまりにも体たらくな人生を振り返ってみる。

 幼少期

1991年、北海道に生まれる。

幼少期より東京に強い憧れを抱く。

 

ものづくりが好きで、テレビでわくわくさんを見ながら、工作をするような子供だった。圧倒的なインドア派で、それでもこの頃は友達もいて、ごく普通の子供。

小学二年生になるまでに北海道内を転々とし、小学2年生から札幌の隣町に引っ越す。

小学生

度重なる引越しにより、元々の性質と相まって、極度の人見知りとなる。休み時間はいつも一人で机の上で漫画やイラストを書いて時間が経つのを待つようなそんな小学生時代。嫌な思い出が非常に多く、とにかく集団行動ができない子供だった。そんなこともあり自分の将来に疑問を抱き、校長室に置いてあった13歳のハローワークを読んだりして、将来サラリーマンにならないことを決める。

 

中学生

卓球部に入る。まさしくダサいキモいオタクみたいなイメージの卓球部員。本当は美術部に入ろうかと思ったけど、運動部が良いみたい風潮に流され、ヒエラルキーの最下層に。まったく運動センスはなく、教室でも目立つことはないカーストの最底辺にいた。とにかくこの現状を変えたくて、どこか遠くに行きたい一心で勉強し、札幌の高校へ。

 

高校生

テニス部に入ろうとしたものの、練習についていけず、他の部活にもなんとなく入れなくて気がつけば居場所がどこにもない状態に。このころから自分の社会不適合さに薄々気がつき始める。勉強もパッとせず、図書館で本を読んだり、携帯でネットをしたり。たぶん、この時期から今までライフスタイルは全く変わっていないような気がする。高3になり、文系か理系か決められず、決める意味もわからないものの、東京に行けばなにかが変わる気がして、東京の大学をいくつか受ける。勉強を全くしてないのでもちろん不合格、代々木ゼミナールに入学。

 

浪人時代

予備校には夏前に行かなくなり、家に引きこもってニート状態になる。またもや全く勉強せずに早慶を受けまくり全敗。親の金をドブに捨てつつ、後期に出した横浜国立大学を受けに横浜へ。ちょうど東日本大震災が起きて受験は中止に。受けていたら100%落ちていたので、不謹慎ではあるものの地震のせいという口実に救われた形になった。予備校は正式に辞め、4月からは晴れてニートに。

 

ニート時代

とりあえず短期バイトをしてみたものの、労働環境にすぐに嫌になる。しばらくしたくないと思いながらも求人誌を買いあさっては電話をかけたり、かけなかったり。深夜に起きて、朝寝る生活を繰り返す。重松清の疾走に出てくる兄のようだなと思って、これでボヤ騒ぎなんか起きたら間違いなく自分のせいだろうとか考える。その後ネットカフェのアルバイトに受かるが、自分の社会不適合さを遺憾無く発揮し、周囲との関係が最悪に。辞職する。その後は本格的な引きこもり。深夜にポテトをあげていると、キッチンペーパーに引火し、天井を焦がす。まさに疾走にでてくる兄となり、母親が帰宅後怒鳴り散らしたのにパニック状態となり、そのまま疾走。翌朝帰る。数日後父親が帰ってくることになり、ボヤで焼け焦げた天井は元の通りに母が修理していたが、今の自分を見て父親に怒鳴られるのが怖くなり、父が帰る当日の朝、家出。JR東日本パスで単身東京を目指す。

 

宅浪時代

なんとか東京に着いたはいいものの特に目的もなくぶらぶらと過ごす。所持金も尽きてきた頃、家を契約しようと不動産に行くが、そのまま親に電話することとなり、怒鳴られる。母親に怒られ、家に戻ることに。親が振り込んだ口座から金を引き出し、フェリーで帰港。母親と話し合い、東京で宅浪することに。高田馬場学生寮で、食事付きとのこと。実際は築100年のボロアパートのようなところで、食事も管理人が作る質素なもの。学年ビリから医学部に受かったという本を出している著者に家庭教師になってもらうが、一回2万という高額な授業料に嫌気がさし、2ヶ月で辞めてもらう。その後もぐだぐだとやる気を出したり出さなかったりで受験勉強をする。結局、2度あることは3度あるというのだろう、センター試験は惨敗で、私立一本に絞る。そもそも私立一本で初めから勉強しておくべきなのだが、長年染み付いた貧乏性が、私立大学受験という選択肢を排除してしまうのである。というか親には国立行く姿勢を見せないといけないのが貧乏人の大学受験。実に効率が悪いのだが、私立に絞った結果、半年間勉強していた数学や理科はなんの役にも立たなかった。最終的に受かった大学は英語のみの受験で入れたので、英語のみ勉強していれば現役で受かった気がする。人生のコスパが実に悪いのだが、これは今も相変わらずな気がするのでここでは触れない。私立もなかなか難しく、明治大学中央大学などのいわゆるマーチは惨敗。手応えはあったものの、社会はセンター以外ほとんど無勉強であったし、国語も私立対策はしていないので当然といえば当然。唯一、センター利用で東洋大学に受かったことにわかったのが2月の19日あたり。人生で初めて大学に受かったので、すこぶる嬉しかった。その後慶應環境情報学部の入試があり、合格する。当日は非常にだるくて、受験会場に行くのをやめようかと思っていたが、実際受けてみると非常に手応えがよく、小論文の試験時間が終わった頃には合格を確信していた。一週間後、見事合格がわかる。もちろん、そのまま入学手続きを済ませる。散々親には迷惑をかけたけれど、終わり良ければすべて良し、ホームランをうっとけば失敗はチャラになる理論で、自分を納得させる。今でも自分はこのタイプの思考なので、人間関係を地道に気づいたり、コツコツ頑張ることができない。いわゆるダメ人間。慶應SFC合格は、ある意味人生最悪の失敗だったかもしれない。といっても受かったものは仕方ない。このときはかなり浮かれていたが、そういうダメ人間は、痛い目を見続ける人生を送る羽目になる。

 

大学時代

もういい思い出はまったくない。

大学一年生の頃に大失敗を犯す。

立ち直れないぐらい絶望する。なお、今も継続中。

その後、休学。

休学後は色々と立ち直ろうと努力するが結局は繰り返し。

朝起きて、いや夕方起きて、ダラダラ過ごして、深夜までネットして寝る。

こういうルーティンをほぼ4年繰り返す。正確には半年休学したので4年半。

途中、あまりに暇なのでお笑いの養成所に通うが、大学と同じく、馴染めずに辞める。

なお、元相方は未だに続けている模様。

23歳までに芥川賞を取れなければ死のうと決めていたはずなのに、小説を一本も書ききれないまま、24歳となり、大学卒業。

就活を超適当にする。テレビ局、出版社をメインに受ける。OB訪問も一切やらずに受けてしまったのが今思うと最悪だった。任天堂の最終面接まで行ったのはいい思い出。最終面接までなら他にもスクエニNTTドコモとか。最終まで行って落とされるのはなにか決定的にダメなやつだと判断されてる気がして、すごく落ち込んだ気がする。最終的には産経新聞のカメラマンに内定をもらうが、辞退。某広告系会社の子会社に入社。なんでこんな選択をしたのか、今考えるとありえない。まあ、カメラを触ったこともほとんどなかったので、ある意味よかったのかもしれないが。結局、就活なんてクソだということを肌で実感する。

 

現在

現在、25歳。広告系企業子会社サラリーマン。特技、なし。スキル、なし。実績、なし。幸せ度、10。本当になにももっていない、なにものでもない、ただの人間になってしまった。小学生の頃に恐れていた大人の姿。誇れるのかどうかわからないが、あるのは学歴だけ。慶應義塾大学卒という肩書き。一番いらない、肩書き。とっとと中退すればよかったのだけれど、結局、自分の能力のなさを自覚していたので、いやなにも考えずにとりあえず卒業したのだ。卒論は白紙で出した。まったく意味のない、人生である。