新卒広告サラリーマンのつぶやき

経済的な自由を求めて

新卒で広告会社に入ったはなし

新卒で広告会社に入った。

 

クリエイティブができるんじゃないかと期待して、大手新聞社の内定を蹴り入社した。

 

 

しかし、実態は代理店の下請けである。

 

代理店には同じ大学の同期が多く、自分の会社との待遇や仕事内容の違いに愕然する。

 

将来のキャリアを考えた時、この会社で歩んでどのようなスキルが身につくのか考えてしまう。

 

そもそも自分は何の為に大学に入ったのだろうか。

 

いっかいのサラリーマンになりたいと一ミリも思わなかった10代。

 

そんな思いを抱えながら就活まで何もない自分のままでいた。

 

少しの間だけ芸能養成所にも通ったが、途中でやめてしまった。

一言で言えば、サラリーマンになれない人間が、芸能界でやっていけるわけないのである。

 

 

しかし、きっぱり諦めることもできず、なにかクリエイティブなことがしたいという思いを断ち切れず、一般企業には興味を持てず、マスコミ関係やエンタメ業界ばかりを受けた。

結果、新聞と制作会社、映像関連企業に内定を頂いた。

 

新聞はカメラマンでの採用だったがなんとなく堅い気がして、積極的な思いで今の会社に入社することを決意した。

 

しかし、今抱えている思いは「転職したい」である。

 

 

会社のせい、ではない。

 

自分はずっとそうなのだ。

どこにいっても自分はどこかそこに適している気がしない。自分の居場所ではないと感じてしまう。

 

それは自分自身に問題があるとしても。

 

 

だから、組織で生きることには向いていないのだろう。

 

しかし、組織で生きることが向いていなくても、私は私として生きていかねばならない。

私のような人間が生きにくい世の中であってはならない。

どのような人間でも、その人にあった居場所はある。

誰にでも、その人次第の生き方がある。

 

 

組織で働くのが向いていなくても、組織の上で働くことに適している人もいる。

組織の外で働くことに長けている人もいる。

 

自由に、自立して生きることに大きなポテンシャルを発揮する人もいる。

 

 

そもそも、或る日突然、なんの能力もない、何も貢献していない新卒の新入社員に初任給として20数万を与えることに違和感を覚える。

 

会社からしてみればそれは未来への投資であり、労働法で企業が果たすべき義務でもある。

 

社員は初めての給料をもらい、自立したと勘違いする。

 

しかし、自立はしていない。

親元から離れ、生活費が自分の所得で賄われることが、自立ではない。

 

自立とは自分でお金を稼ぐことである。

 

ただ会社からサラリーを与えられているだけでは、自分でお金を稼ぐことに全く当てはまらないだろう。

それは新卒社会人でも、何年のキャリアを歩んだ社会人でも同等である。

意識として、サラリーを頂いているのでは、いつまでたっても会社なしで立つことはできないだろう。

 

今日会社が潰れたとして、明日から生きながらえることができないのならば、それは会社に自立させていただいていただけである。

 

 

自分でせめて所得を稼ぐスキルを身につけなければならない。

 

しかし、スキルを身につけるのにそんな時間をかけてはいられない。

 

スキルを身につけるのが目的ではなく、自立することが重要である。

 

そして自立して、やりたいことをやらなければならない。

 

 

人生は一度しかないからだ。

 

 

このブログを書くことを続けていく限り、私は自立し、夢をかなえる。

 

 

 

 

絵とかプログラミングのはなし

 
集団競技とか集団授業とか何よりも嫌いだった。
授業とかまともに受けて役に立ったということがほとんどない。
大学の講義で唯一面白かったのは教授の雑談やホリエモンみたいなゲストスピーカーの講義くらいだ。
テニスや卓球、スピードスケート、スキーのような個人競技は好きだったけど、団体戦は死ぬほど嫌いだった。
 
 
 
 
 
自分じゃない誰かの意思で動くって心底合わないなって感じている。
もちろん人間は社会的環境に置かれている限り、誰しもがなんらかの意思のもと行動しているのかもしれない。
であったとしても、少なくとも自分の判断で動けない不自由さがかなりストレスとなる人間が一定数はいるだろう。
 
 
 
逆に与えられた仕事を完璧にこなすプロフェッショナルとしての適性を持つ人間もおり、
それはそれで幸せであるだろうし、どちらが正しいとは言えない。
 
 
 
 
高橋まつりの事件に関してはもはや憶測でしかないが、自分の意思と全く反した強制力の中で、不正を働かざる得なかったという過度なストレスで生じたものであるような気がしてならない。
 
 
もちろん長時間残業や、上司からのパワハラなどの総合的な要因の中で鬱状態となり、衝動的に自殺という行為を選んだということは合理的解釈である。
 
また、自殺する前に退職すればよいといった意見が根強く広がっているが、これは自殺という行為の要因に対する不勉強から生じる誤解である。
 
厚生労働省によれば自殺の事由で最も多いのは病気によるものである。
これを細かく見ると生活習慣病精神疾患が含まれている。
 
しかし、どれも共通するのは病気に悩んで自殺という道を選んでいるという点である。
これはデータには現れない背景であるが、まぎれもない事実である。
 
なぜなら自殺するのはいかなる場合も自分であるからだ。(自分の意思とは限らない。)
 
しかし、病気により鬱状態となれば、自殺という道を選ばざる得ない状況に人間は追い込まれる。
病気は時として人を絶望へと追い込む。
 
そしてキルケゴールいわく絶望とは死に至る病である。
 
つまりなんらかの要因で人間は鬱状態となり、自殺へと追い込まれるわけで、その状況下では合理的な判断などできるはずがないのである。(*つまり自殺の要因の大部分が病気によるものというデータの病気とは鬱のことを指す。鬱とは正確には鬱状態のことを指し、病気として明確に存在しているものかどうかは医師によって様々な意見がある。)
 
 
 
 
高橋まつりはデジタルアカウント部に配属されていたと報道されている。
業務上、先日発覚した電通によるネット広告不正事件(http://www.goodbyebluethursday.com/entry/dentsu-fraud)に関与していた可能性も十分考えられるだろう。
そのような中で自分の意思に反して不正に関与さざる得ないという状況に置かれた場合に受けうるストレスは想像を絶するものだろう。
 
 
 
 
 
資本主義社会では人間を大きく分類すると資本家か労働者に分けられる。労働者は資本家の意思で働き、自由を拘束される代わりに賃金を得る。
 
一方資本家は労働力や新たな資本に投資することで、資本をさらに増やすことができる。労働は決して投資を上回ることができない。これはピケティが21世紀の資本論内で指摘し、世界中で議論を呼んだが資本主義社会の中では至極当然の論理である。
 
 
また、現在の企業法の背景に紀元前の奴隷制度が影響しているというのは定説である。
労働者というのは資本家により身体と精神の自由を拘束される奴隷なのだ。皆、望んで奴隷として働くため、就活をしている。
 
 
しかし、奴隷として働く意思を持った学生は自身の奴隷性に気づかない。
ゆえに皆、奴隷として幸せを得る。それが間違っているわけではない。
大抵皆、奴隷だとは思っていないし、ワークライフバランスをコントロールしながら、ある程度の自由を享受し、幸せであると思っている。それはそれでいいのだろう。
 
 
人の幸せの定義は人それぞれである。使われる側であるほうがパフォーマンスを発揮しやすい人が大半である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
子供の頃から絵を描くのが好きだった。
 
 
真っ白なキャンバスに絵を描いていると何もかも忘れて没頭することができた。
 
たまたま自分の描いた絵が全国展に行った時は、誇らしかった。
 
 
でも、そんなことはどうでもよくて、自由に誰からも干渉を受けずに絵を描き続けることが、幸せだった。
 
 
それは絵を描くことに何一つ強制性も、制限もないからだ。
 
 
真っ白なキャンバスに描く絵には完成させるべきゴールはなく、何もかもが自分で決めることができた。抽象画と言い張れば、鉛筆で一筆書くだけで、作品として認められる。
 
 
この自由さが自分には何よりも居心地の良い環境であった。自分で全てを作り出すことができるのは、絵しかなかった。
 
 
 
 
 
 
 
社会に出れば自分の意思で全てを決めることなどできない。
 
 
それは自分にとって何よりも苦痛であるだろう。自分は子供なのだろう。いつまでたっても大人になれない。
 
 
学生時代のほとんどをバイトに費やしたが、どの仕事もやりがいはまるでなかった。
 
自分の自由がないからだ。
 
もちろん何一つないわけではない。
 
工夫し、改善できることはたくさんあったし、そうゆう工夫が実って、なんらかの良い影響が与えられたことはよかった。
 
 
しかし、ずっともやもやしていた。だからほとんどのバイトも長続きしなかったし、長続きしてもずっと続けたいとは思えなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
来年4月からこのまま内定先に入社するかどうかはわからないが、いずれにせよ同じような問題に直面するだろう。
 
自身に与えられた裁量がいくら大きくても、それは与えられたものでしかない。
 
与えられた仕事を与えられた裁量の中で行うことに私は決して評価されるようなパフォーマンスを発揮することはできないだろう。
 
 
 
かといって自身で仕事を作り出し、高いパフォーマンスを発揮する自信も能力も今のところない。また、資本がない以上、なんらかの資本に寄生する以外方法はないだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今現在40℃近い高熱と腹痛で今月から続けていた仕事も休職させていただいている。資本家でない限り、労働しなければ生きてはいけないが、労働をし続けると限界を迎える可能性もあるだろう。
だから私は資本家か個人事業主になりたいし、その道を目指さなければならない。映画監督にもお笑い芸人にもなれなかった。
つまるところ、根性なしの私は途中で諦めてしまったのだ。個人事業主になるとしたら作家だろうか。簡単な道ではないだろうし、小説を書くことはあまり向いてなさそうだ。文藝春秋社で芥川賞に関わりたいという思いで入社試験を受けたが3次試験で落ちてしまった。いつか芥川賞を取れるだろうか。それよりはまだ資本家になるほうが現実味がありそうだ。
 
 
 
しかし、ホリエモンのように資本を引っ張っていく力はない。社長に求められる人や金を集める能力に私は乏しい。
 
 
 
となると、何をするべきで何になれるのかわからなくなってくる。少なくとも今は生きるために労働するしかない。
 
 
 
それかやっぱプログラミングを勉強しよう。
 

24歳のハローワークのはなし

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんつーか、投稿とか初だから、怖いし、誰にもいいねとかお誕生日おめでとうとか言ったこともないSNS人見知りなので、反応してくれる友達とかいないと思うし、誰にも見て欲しくないけど、うずうずしてるので、書く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小学生の時から、サラリーマンになれないと思っていたし、今も思ってるので、するつもりなかったけど、自分の能力考えるとしないと詰むっぽいので、就活した。

 

 

 

 

 

 

 

 

スクエニとか任天堂とか某新聞社とかドコモとか某広告とか、名前知ってるところで面白そうなとこだけ受けまくったら、最終までは上記全部行ってそのうち何社からか内定もらった。意外。コイキングでレッド倒した気分。

 

 

 

 

 

 

 

 

まあ任◯堂とか最終でゲーム弱いです、そもそもwii持ってません、DS持ってません、ゲームやりませんって言ったら落ちたけど、ふつーに。事務のお姉さんが綺麗でした、京都弁ギザかわいい。い◯だっち、もつ鍋ありがとう。

 

 

 

 

大学4年半でやったことといえば、引きこもっていかにお金を使わずに暇を弄ぶかぐらいなんで、企業が見てるのなんて学歴とハッタリという適当な基準でしかないことを、知った。(あと、芸人養成所行ってたことを10000倍ぐらい誇張しただけかな、売りは。)

 

 

 

 

だから、適当ぐらいの気持ちで、適当な結果だと適当に考えてる。

 

 

 

 

 

 

 

ま、最終でこれだけ落ちたのだから、深いところまで見て、こいつは本当に人間的に問題があるという経験と直感にもとづく、判断がされたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

つまるところ、自分はサラリーマンとして不適合者であるという自己分析は、正しかったという確認ができただけでも、就活した意味はあったような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

それでもお金も人脈も、能力もほとほとないわけで、サラリーマンになるかホームインザパークになるとしたら、前者を選ぶしかないので、そこそこ感じのいい会社に入れるのはありがたい、と感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、最近は闇金ウシジマくんみたいな世界で、夕方17時起きで働いていたわけで、音痴であることが役立ったり、学歴とか内定先のブランド力ってすごいなって認識したりしていたけど、自分の中身なんてなにひとつないのに、変に勘違いされるのが煩わしかったり、そんなものにすがるしかない自分のショボさを痛感してた。でも経験的にはいい、一生無縁の仕事だと思ってたし。金はもらってないけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

大抵の人は若干社名を勘違いしているけど、まあいいや。そういうとこでも、あ、やっぱすげえ会社だなっと思ったりしたし、自分みたいな無能にとってはブランドって大事だなって実感してた。

 

 

 

 

 

 

で、とりあえずお金がないと生活できないので、自分なりの全力で一生懸命、毎日働いてるつもりだったけど、一向に金はないし、はよ4月なって、入社したい気持ちが募るばかりであった。

 

 

 

 

 

 

 

そもそも大学を9月に卒業するつもりは毛頭なかったので、大学に抗議に行ったら、脅しにあったので、もうこんな大学辞めてやるって感じで過ごしていたら、卒業証書をもらってしまうはめになった。これは、つまり精神的中退である。だって、卒業論文書いてないし。

 

 

 

 

 

 

 

で、そんな感じで過ごしていたらこの記事

 

 

 

jnakagawa.blog.jp

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これ、いいねしたかったけど、いいねとかしたら内定取り消しになるんじゃないかって気がしてしなかった。(厳密には別の会社だし)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、こういうこと書くと、ばれたらまずいことになると思うけど、でもやっぱ書かずにいられない。それで白紙になったら、それはそれでいいや。今書かなくても、どうせいずれ、クビになるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

某新聞社の面接で記者に必要なものはなんだと思いますかって聞かれて、体力とコミュニケーション能力だと思います!って答えたわけだけど、自分にはそのどちらもないなって思って、自分にないふたつの要素を言った。それで受かったんだから、人間の口から出た言葉ほど信用できないものはないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

要するにこのふたつが文系サラリーマンには必須且つ、唯一の能力であるんじゃないだろうか。で、自分にはどちらもないと思うのが、サラリーマンには向いてないなっと自己分析した所以であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところがどっこい、自分が入社するつもりの会社は、記事にある通り、THEサラリーマン的社風の会社である。知ってたけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でもここまで、とは正直思わなかった。萎える。萌える。萌えー。

 

 

 

 

 

ではコミュ力も体力もない人間が生きるにはどうすればいいか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぶっちゃけ、そんな道はないんじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どっちも最低限は必要。たとえプログラマーでも。いやむしろプログラマーのがそういう能力が必要だったりする。(知らないけど)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でも、今の時代はやはりプログラミングできない人間は、いずれ淘汰されるに違いない。少なくとも、今、会社に所属せず、全く人脈もありませんってなると、クラウドワークスかランサーズで業務委託的感じでプログラミングして、収入を得るぐらいしか思いつかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

というわけで、自殺する前にプログラミング勉強しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

自殺よりはプログラミング。

 

 

 

 

 

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