新卒広告サラリーマンのつぶやき

経済的な自由を求めて

自慰行為とセックス

なんで生きているかというと、大半の人は幸せになるためと言う。

人それぞれ価値観があり、生き方も生きる目的も多様であるので、是非を問うことはできないだろう。

 

では、幸せとはなんだろうか。

幸せの定義とは明確に存在するのだろうか。

秋元康が幸せの定義を30までに決めていない人は幸せを享受できないと言っていた気がするので、もう一度幸せの定義を再確認したいと思う。

 

幸せとは、快楽とは異なる。

快楽は脳内の主に前頭葉前野部におけるドーパミン放出量に寄与する。

ドーパミン放出量を増やせば快楽に浸ることはできるので、ただひたすらに覚せい剤を吸引し続ければ「快楽」を満たすことはできる。

あるいはセックス、オナニーなどによって絶頂に達すれば快楽は得ることができる。

また、スポーツやコミュニケーションなどでも脳に「快楽」を感じることは可能だ。

意外なところでいうとカレーライスを食べることも、腸内刺激により脳内のドーパミンを増やすことができるので「快楽」を感じさせる行為である。

 

しかし、カレーライスを食べてオナニーをしても幸せとは限らない。

私はおそらく人生の幾つかの時間においてカレーライスを食べた後にオナニーをしたと思うが、決して幸せではなかった。

 

自身の幸せの定義が定まっていないのにもかかわらず、他者の幸せに寄与することは難しい。

けれども、世の中には誰かを幸せにすることが自分の幸せであるという主張をする者がいる。

もちろん、それは賞賛すべき素晴らしい思想であると思うし、そのためにモチベーション高く行動できるならば、幸せな人なのだと思う。

ただ、はっきりと言いたいのは「誰かのために何かすること」は「誰かのため」ではないということだ。

誰かのために何かしたいと思うこと、何かすることは100%の自分の「エゴ」である。

自分の幸せのために、誰かの幸せに寄与したいのである。

必ず、自分の幸せのためにが前に来るはずだ。

社会のために、誰かのために、そういうモチベーションで行動できる人は素晴らしいと思うし、全く批判するつもりはない。

素晴らしいかどうかは別として、自分以外の何かのために、実益として実際の行動が結びついているのだとしたら、事実、何かに貢献していることは間違いない。

 

だからそういう人にとっての幸せとは「他者の幸せのために貢献すること、自分以外の何かのためになること」なのだろう。

こういう幸せの定義は、私はありだと思う。

かくいう私もどちらかというとこの定義側に立つ人間だ。

 

人間は幸福を追求する生き物だ。

幸福追求権は自然法として元来の人間が持っている普遍的な権利だ。

では幸福を追求するとは何か。

 

大きく分けて幸福追求とは以下のように二分されるのではないかと思う。

 

・自分の幸せのために生きること

・(自分の幸せのために)自分以外の幸せのために生きること

 

前者の生き方が後者の前提に来るという話は先ほど書いた。

ここでいう自分の幸せのための行為、自分以外の幸せのための行為というのはあくまで表面上のものだ。

 

例えば前者にはお金持ちになる、やりたいことをやる、結婚して平和な家庭を築きたい、多くの友達に囲まれて過ごしたい、周囲から評価されたい、といった自己実現行為が含まれる。

もちろん結婚とは自分以外の誰かの幸せを願う行為であるので、後者にも被るのだが、ここでいう前者の行為とはあくまで、自分の生活上つながりのない他者が介在しない場合においての行為である。

いわゆる自分の幸せ、大半のひとはこちら側を幸せのあり方に定義していると思う。

というか後者の場合においても前者の幸せをなしにして、幸せとは言えない。

だから明確にはこの分類は不要であるし、曖昧である。

 

後者の場合は、社会のあり方を変えたい、世界を変えたい、自分と同じような境遇の人を救いたい、恵まれない人々の生活を変えたい、などがある。

何度も言うがもちろん後者と前者に明確な線引きはない。

なぜなら、後者も前者もエゴイズムには変わりないからだ。

どちらが立派であるとか、そのような評価にも意味はない。

 

ただ、前者の幸せがすべてであるとは私は思わない、というだけだ。

世の中ではなぜか、年収、人間関係、職業、世間体、キャリア、結婚の有無、など幸せのロールモデルがさも存在しているかのように、個人を錯覚させようとしている空気がある。

 

フリーター、正社員、派遣社員契約社員

こんな枠組みは社会や会社が規定した契約形態の違いでしかない。

フリーランス個人事業主、起業家、資産家、いうなれば働き方など無限であるし、個人を規定するものは何もない。

個人の幸せとこのような表層的な名称は一切結びつかない。

幸せにロールモデルは存在しないし、個人の幸せを追求する行為だけが、「幸せ」では決してない。

他者の幸せが個人の幸せに結びつくことだって多分にあるし、社会の幸せのために自分が犠牲になることで、自分が幸せになることだってあるだろう。

 

自分の幸せを追求する行為はオナニーとなんら変わらない。

オナニーは環境の変化とは無関係になされる。

環境がどうなれ、オナニーをすることはできるし、オナニーは環境に変化を与えない。

変化を与えているように錯覚しているだけである。

人間の99%が所属するオナニー団体に、何故入ろうと思うのだろうか。

より良いオナニーのために環境を変化させようとしているセックスを何故行おうとしないのか。

もちろん、セックスはオナニーの一部である。

ただどうせ同じ時間を過ごすのであれば、オナニーに付随して、オナニーの伴うセックスをしてもいいのではないだろうか。

 

セックスを一度もせず、人生を終えることに、一体何の意味があるのだろうか。

意味はあるのかもしれないが、それはオナニーに関わったごく一部の環境の変化でしかない。

ティッシュを汚し、自分の周りの床を汚し、部屋をイカ臭くする。

ただそれだけだ。

同じオナニーであるのであれば、部屋を汚し、野外で喚き、あるいは複数人とハプニング的にプレイをし、いろいろな人の感情に影響を与え、社会の仕組みを変え、世界を変えるセックスをするべきなんではないだろうか。

 

大きな視点で見ればどちらも大した意味はないのかもしれない。

単なる一哺乳類の生殖行為である。

 

で、あれば処女よりヤリマンがいい。

童貞よりヤリチンがいい。

 

世界を変えるのは常にセックスを追い求めた者だと、私は思う。

世界を変えるために、セックスをしよう。