人間はある程度の確実性を未来に信じて生きているらしい
今、3歳児がプロ野球選手を目指して野球を始めたとする。
彼の夢はプロ野球選手だ。
まだうまく振ることすらできないバットを一生懸命持ちながら、未来のイチローを目指し始めた。
ところで彼が大人になる頃にプロ野球選手という職業は存在するのだろうか。
なんてことを彼や彼の両親は考えることはない。
考えたからといって、彼が野球を辞めることはない。
彼はプロ野球選手になるために野球をやっているのではなく、野球が好きだからそうしているのだ。
人間は誰しも夢中になれたもの、好きだったものを抱えて生きている。
けれども、現実という壁を目の前にして、理想の自己実現とは異なる道を歩む人がほとんどであるらしい。
そこにはある程度の確実性を信じて大企業に行けば安泰だとか、まあいろいろ考えて、進路というものを決める心理があるらしい。
私はこの確実性というものを一切と言っていいほど信じていなかった。
というよりも、ほとんど何も信用していなかったし、今も信用していない。
自分のことすら信用していないから、明日何を考えているかもわからないし、自分の行動には常に不安が伴う。
早く人工知能に最適な意思決定を委ねたいとすら思っている。
そこで死を選ぶのが最適だと言われても、おそらく信じることはないだろうが。
ある程度の確実性というものを信じているから、人は頑張れるのだと思う。
将来なりたいものや、目標があり、それに向けて計画を立て、実行する。
これこそが人間が自己実現を行う最善かつ最効率な手段である。
その目標に疑念を抱いたりはしない。
抱いても、それに対してはある程度の意思で思考停止あるいは思考の外に外す。
でなければ、人は目の前のものに集中することができなくなる。
これをもしかしたらADHDというモノに分類するのかもしれない。
私は常に疑っていた。
世界を。未来を。
疑えば疑うほど、目の前の現実に集中できなくなり、常に思考を未来に置いて考えてしまう。
そもそも未来に有益になりえないと判断したモノには、一ミリも労力を払いたいと思えなかった。
有益かどうかはその時にならないと判断できないのであるが。
普通はそう考え、とりあえず思考を停止させて実行を行う。
人間とは実に器用で、うまくできた生き物だと思う。
私はそれがどうしてもできず、なにも集中できず、何も実行できなかった。
けれども幸か不幸か、気まぐれとハッタリでなんとかここまで生きることができた。
私が予測していたであろう25歳の未来が、今目の前にある。
私は私が予測していた未来を体現できているだろうか。
そもそも私が予測していた未来とはなんだったのか。
不確実性に塗れた未来は、そもそも存在などしなかったのではないだろうか。
それでも私は今を疑っている。
今を疑い、未来を予測しようとしている。
未来のために、今を過去にできない不器用な私が、今もいる。
たいていの場合、人の行動と思考はおそらく比例している。
今を基準に考える今的思考の人の行動は今に起点がある。
そういう人は得てして行動力が高いように思う。
そして行動力が高い人の中には大成功する者、大失敗する者どちらも存在する。
いわゆる成り上がりタイプ、ヤンキータイプである。
未来を基準に考える未来的思考の行動は未来に起点がある。
このタイプにはふた通りいて、未来に向けて今を着実に実行できるタイプと、
未来を疑い、今を疑いすぎるため行動が常に遅れるタイプだ。
前者は自分が規定した未来を疑わず、ある程度仮説として信じることが意識的にできる。
たとえ未来が自分の仮説とは異なっていても、修正し、行動を正しながら実行を着実に行う。
一方で後者は常に未来の予測を行い、頭の中で修正に修正を重ねながら、実行動は何も進んでいない。
これがADHDというモノの実態ではないかと私は思う。(思ったりもする。)
最後は過去を基準に考える人だが、これについては語る必要はないだろう。
過去の歴史的事実を基準に未来を予測するという者でない限り、このような者に未来はない。
自分の過去を基準にいくら考えても、そのさきにあるのは自分の過去にすぎない。
過去から脱却しなければ、今まで生きてきた自分の過去をなぞるだけの未来が、そこには待っている。
確実な未来、確実な今、確実な過去。
どんな確実があったとしても、確実は現実にならない限り、不確実である。
考えている確実は、すべて幻想と言える。
現実となった確実でさえ、その次の瞬間にはすべて過去となる。
過去は確実ではなく、人によって不確実に変容していく。
過去の確実を証明することなど、人には不可能なのだ。
私は幸か不幸か、確実な未来を進むことも想像することもできない。
常に不確実な道を選び生きていくしか道はないのだろう。
今ある全てが私にとって不確実である。
人もモノも金も、なにもかもが。
私という不確実な存在は、未来においても確実を伴うことはない。
その意味で私はずっと透明であるのだと思う。
私にできることはおそらく、透明であるがゆえ、確実の土壌に誰しもが乗った時に、声高々に不確実の可能性を叫ぶこと他ならない。
私が何故生まれてきたかを考えれば、私にしかできない確実なことが見えてくる。
そしてこんなことを考える。
人間がある程度信じている確実性というモノに、幸せの何かがおそらく含まれているのではないかと。