新卒広告サラリーマンのつぶやき

経済的な自由を求めて

なぜ世界をもうひとつ創らなければならないのか?

 

 

大学の講義である教授が言った言葉が印象に残っている。

 

「みなさん、職業に貴賎はないっていうでしょ。いや、職業に貴賎はあるんですよ。」

 

教授が言った意味はいくら職業に貴賎はないとキレイゴトを並べても、社会は学歴や職業、会社で判断することが多いという社会のリアルを表すつもりで述べたのだろうし、私もそう解釈した。

 

教授が東大法学部卒の官僚でHarvardでMBAを取得した大学教授という社会的に立派な職業所持者であることとはもちろん関係がない。

 

その言葉で教授の人間性を疑うものはおそらくひとりもいなかったし、事実、非常に人柄のいい人間的にも立派な教授だった。

 

慶應大学にはその社会的信用性を巧みに利用する学生が多く、その後も名だたる企業に所属しそのブランドを最大限に発揮し、巧みに社会を生き抜く人間がほとんどである。

特に名だたる企業に入るとその信用性を利用しない手はないし、利用できるものはすべて利用するのが賢い人間であることはもっともだ。

 

なので、「職業に貴賎はある」という言葉は社会という存在との関係性を考えれば、妥当な言葉であると思う。

 

それでも、私は職業には貴賎はない、という意味を考えたい。

 

正しく述べれば、少なくとも職業と貴賎は直接的に結びつかない。

正しくは貴賎の目的語は職業ではなく、社会になる。

社会の中に貴賎という概念が含まれているのだ。

もちろん職業は社会的な役割を指すので、

職業に貴賎はあるも、社会という大きな枠組みに貴賎があり、

社会に職業は含まれているので、正しいといえば正しい。

なので、私が言いたいことを正しく述べれば、

「職業(という社会的役割(を担っている人間単体)に貴賎はない。」である。

 

社会という概念は頻繁に使われる割に実態が見えにくく、

ぼやぼやしているが突き詰めて考えれば人の集合体であり、人の考えの集合体だ。

その中には様々なノイズ(に見えるもの)が存在し、人間の目に靄をかける。

目を正しく養えば本質が見えるのだけれど、大抵の人はノイズに左右され

実態のある形を見ることはできない。

 

私は高校卒業した後ニートであり予備校生であり引きこもりでありニートであった。

社会的に思われている私はそういう役割である。

実際に社会的な人々から私は「排除」され、そういうものとしての扱いを多分に受けた。(という私の偏見が入っているが、実態とは異なる)

そんな私が慶應義塾という大学に入ると、社会的に「慶應義塾大生」になった。

私が想像していた以上にその名前には影響力と社会的価値があるかのように、社会的に扱われた。(もちろん、価値はない。)

ただ同じ大学の中では当然のごとく同じ共同体であり違いはないので、そのような扱いはなく、通常の社会と同じようなノイズで見られることとなる。

例えばコミュニケーションの取り方や挨拶、外見、喋りの面白さ、スキルの高さ、表情、その他もろもろの現れる要素。

そのような目で見ることのできる要素で人はその人が何を考えているのかを類推し、判断する。

楽しそうな人には人近づき、不満そうな表情の人からは人は離れる。

当然のことだ。

人間はそのひとの外見や言葉、現れる何かで判断するしかない。

では、果たしてそれが本当に正しい判断なのだろうか。

いろいろな要素から判断した、「人」が本当にあなたが考えている「人」なのだろうか。

 

「この人は一体何をかんがえているのだろう。」

そんなことは現れているものをいくら見てもわからない。

なぜなら、現れている要素は全てノイズでしかないからだ。

人間の本質はそこには存在しない。

本質なんてものがあるのかどうか、それを疑うものもいるが、

本質なんてものの存在は明らかだ。

誰が何を考えているか、一体どういう人間か。

自分の中の自分とじっくりと向き合えば答えはおのずとでる。

生半端なじっくりではない。

考えに考え、突き詰めて考えればそこまで苦しまなくとも、はっきりと実態の伴った自分が見えてくる。

 

ほとんどの場合、ガワでしか人間は判断ができない。

何故か。

当然、ガワでしか考えていないからである。

自分のガワで考えに考え、要素を分解し、その先を見ようと試みても、ガワしか見えるわけがない。

ガワで考えると、ノイズしか見ることはできないのだから、ノイズを材料として判断せざる得ない。

そういう意味ではノイズがどのようなものか、非常に重要なのだが(社会を器用に生き抜くには)、全体で考えれば社会にノイズが量産されていく一方である。

社会全体がノイズで溢れかえれば、ノイズを高めるためにガワで考える人を量産し、やがて本質のない社会となる。

もはやそれは社会とはいえない。

社会としてなんとか形付いているように見えるものが、靄だらけの姿となり、やがて靄となり、消滅するだろう。

 

具体的に言えば、あらゆる面において人は人を許容できなくなる。

自分では理解不可能なもの、自分とは異なるものをカテゴライズし、他者との間に境界線を築く。

それは新たな社会を生むことになるが、加速度的に分裂に分裂を続け、社会は個人の集合体から、個人と個人がただ「いる」だけとなる。

誰も社会の一員ではなくなる。

誰しもが生きづらい、「社会」となる。

 

本質は誰しも一緒である。

突き詰めればわかるが、同じなのだ。

どんなに脳に障害を抱えていても、

どんなに頭が良くとも、それは変わらない。

考えていること、は一つしかない。

それはここで言語化することはできない。

言語化できないものは何一つなく、言語化できていないとすれば、

それは理解できていないこと、という見方もあるだろう。

それを全く否定するつもりもないが、

ここで書くことはできない。

 

とある殺人犯がいる。

自分と関係のない人々をトラックではね、ダガーナイフで次々と刺した。

罪のなき命が数多く奪われた。

止めに入ろうとした警察官が犠牲となった。

犯行の動機は、「何もかもが嫌になった」だそうだ。

当然、犯人は最高裁で死刑が確定した。

 

果たして彼の考えていることがわかるだろうか。

彼のことを許せるだろうか。

被害者の二度とない人生を身勝手な理由で奪った彼を。

何の落ち度もない被害者たちの家族の気持ちを考えて、

許すことなどできるだろうか。

 

残された彼の両親や、被害者遺族はどのように生きていけばいいのだろうか。

彼らの人生に希望はあるのだろうか。

そして、彼、本人の人生に。

 

許せないのは当然の感情であるし、許せとは誰も言わないだろう。

 

しかし、別の見方をすることはできる。

 

世界にある砂の数は一体幾つだろうか。

砂場ではなく、砂一つ一つである。

おそらく、ほぼ無限に違いない。

その中に星型の砂はいくつかあると思うか。

「ある」と思う人が大半ではないだろうか。

 

もっとマクロに考えてみる。

目の前にコップがある。

このコップは量子の集合体でできている。

量子は最小単位の実態のある要素だ。

通常は決して肉眼では見えることのない速度で飛び回っているのだが、

偶然私たちの目の前に見える瞬間だけ、その場にとどまりコップを形成している。

次の瞬間には分裂して消滅するかもしれない。

もちろん、常識的に考えてありえないことではあるが、決して0ではない。

そして、この瞬間にコップとして我々が見ていることも逆に考えれば、

決して0ではない確率の末に存在する結果にすぎない。

無限とも言える数ある量子が、このような偶然を形成する確率は、

0ともいえるような確率なのだが、その現実を我々は目撃している。

 

人間は無限には存在しないが、人間自体が量子の塊であることを考えれば、

その存在・行動・考え、すべては0ではない確率の中から生まれている存在である。

次の瞬間にはスターバックスでコーヒーを飲んでいるあなたが、車にひかれて死んでいるかもしれないし、バッタになっているかもしれないし、総理大臣になっているかもしれない。

ありえないと直感的には思うが、車にひかれて死んでいる確率は相当ありえる話だ。

 

言いたいことはだいたい理解できたと思う。

 

では、そういう極めて低い(と同様の確率で幸せな日々をきづいている人々が思っている)確率で「絶望」に飲み込まれてしまった人々を救うことはできるのであろうか。

社会のありとあらゆるノイズを取り除き、すべての絶望を消すことはできるか。

当然、不可能である。

人間は神ではない。

超人はいない。

社会問題、個人問題、ありとあらゆる諸問題をすべて解決することはできない。

けれども、このありとあらゆる問題のはびこったノイズだらけの世界から逃れることはできる。

逃れることは死ではない。

死の先には世界は存在しない。

絶望は自分自身の生にあるのではなく、常に世界に存在する。

たとえ自分自身の生に不満を抱き、絶望していたとしても、それはガワの話である。

ガワの存在しない、世界に行けばいい。

ガワの存在しない世界は、テクノロジーが現実世界に作ることを許してくれる。

 

世界を創ったのは神なのかもしれない。けれども、世界のノイズを創ったのは人だ。

世界は決して最悪でもなければ、最高でもない。

素晴らしくもなければ、美しくもないし、汚れてもいない。

ノイズがそう、見せているだけだ。

だから、テクノロジーで新しい世界を創ればいい。

ノイズのない、本質だけの世界。

本質には争いは存在しない。

差が存在しない。

差が存在しなければ幸福も不幸も、もちろん存在しない。

そんな世界の何が楽しいのか、と思うかもしれない。

で、あればまた新たな世界を創ればいい。

ノイズに満ちた世界を。

それを好むのであれば、創ったって構わない。

世界はもう一つではない。無限に存在する。

無限と思えるぐらい、ありとあらゆる世界を創ることをテクノロジーは許すだろう。

それに対してネガティブな見方をする人も多いと思う。

けれども、絶望よりはマシではないか。

世界はよくなければならない、世界の紛争を無くす努力をしなければならない。

そんな言葉で世界が変わるのであれば、絶望は存在しない。

 

世界を変えるより、世界を創る。

絶望を希望に変えるより、絶望から逃れることを考えろ。

絶望に効く薬は、希望ではない。

絶望のない世界だ。