新卒広告サラリーマンのつぶやき

経済的な自由を求めて

ブログ始めたんだけど、全然流入しないねってはなし

はてなではなく、完全独自ドメインでブログを始めて見た。

 

 

CRELIFE | why join the navy if you can be pirates?

 

 

一応、webマーケティングの仕事してるし、それなりにweb解析界隈のことは実践してるんだけど、流入がまじでほとんどない。

 

あってもおそらく自己流入がカウントされてる模様。

 

 

はてなでブログ立ち上げれば、はてなブックマークからの流入とかいろいろ可能性あるけどwordpress独自ドメインで人脈0から始めた場合、いったいどのくらいで検索流入とかあるわけ?

 

俺が特別少ないのか、それともある程度(100件)くらいの記事数書かないと、一切流入しないのか。

100件記事書いて、流入100なかったら泣くよさすがに。

せめて10000PVは欲しいなー。

10000万どころか、いま0だからね、まじで0

 

いったいブログを完全独立で始めたひとはどんな感じで流入増やしたのか、まじで教えて欲しい。

 

 

新卒3ヶ月目で転職を試みた結果、なんの手応えもなく落ちた話

どーも、新卒3ヶ月目で既に会社を宇宙一辞めたがっている僕です。

 

会社をどうしても辞めたくて、最近は転職サイトに登録したり、プチ転職活動をしておりました。

 

僕が会社を辞めたいと思ったのは入社式の後の社長の「お話」を聞いたときでした。

 

詳しくは伏せますが、明らかに自分が持っている価値観やキャリア展望とずれていたため、現時点で自分が居るべき場所はここじゃないなと思い、退社を決意しました。

 

しかし、そうはいっても貯金なし、給与所得以外なしの僕にある選択は、転職以外は現実的ではなく、会社に勤めながら、細々と転職サイトに登録することぐらいしかできませんでした。

 

といってもレクミーキャリアに相談しに行ったり、実際に企業に応募したりしていたのが5月あたりなので、退社の意思はかなり固いと言えるのではないかと思います。

 

そんな僕ですが、そもそも入社3ヶ月で会社を辞めたがっているわけで、会社勤め自体が向いていないのは明らかです。

 

運良く他者への転職が成功したとしても、おそらくなにかと「いいわけ」をつけて、長くは続かないことは目に見えています。

 

そんなことはもともと自分を分析してはっきりとわかっておりましたので、小学生の頃から「サラリーマンにはならない」と考えておりましたし、それ以外の道をずっと模索していました。

 

高校生の頃には僕のような社会不適合者は手に職をつけなければならないと思い、工学部や法学部などの実学分野への進路を考えておりました。

 

結局のところ、集中力0なので受験勉強が全く進まず、2浪して英語と小論文のみで入れる慶應義塾大学SFCに入学します。

そして、社会不適合な性質を遺憾無く発揮し、人間関係が崩壊し、引きこもりとなり、精神科を駆けずり回った結果、ASDであることがわかりました。

その上で一旦絶望し、なんとか僕が生きられる道というのを探しながら、大学生活を送るのですが、行動力もなく金も友人もない僕はぐだぐだ言い訳を頭の中で押し並べて、無為に時間を過ごしました。

結果、何もない25歳となってしまい、生きながらえるために就職する道を選びました。

 

というわけで、そもそも僕は就職することに全く向いていないのにもかかわらず、新卒きっぷを使い就職しました。

そして、全く向いていないのにもかかわらず転職活動をしております。

 

にもかかわらず、なぜ会社に依存し、生きようとしているのか。

ひとえにその理由は金でしょう。

世間体とか安定とかそんなものは全くと言っていいほど気にしておりません。

なぜなら僕に関心のある世間などというものは存在しませんし、会社にいても私は常に不安定な存在であるからです。

 

けれども、会社にいるとそこでしか得られない「経験」や「出会い」というものに遭遇します。

もちろん僕は社会不適合な存在ですので、一般的に得られるそれとはかなり違うとは思いますが、それでも家で引きこもっているよりは格段に大きな人生の糧になるはずです。

 

となると会社に所属するメリットというのは「金」以外にもあるわけで、それを知れたことは就職した意味になるのかなと思います。

 

そういうわけで、単に給与や世間体がいい企業ではなく、人生の一部を過ごす上で「経験」として得られるものを考えて、転職を試みておりました。

特に新卒入社した結果感じた違和感から、会社の持つ価値観がもっとも重要であると思っております。

その会社の進みたい方向性や考え方、特に創業社長のマインドはかなり大きいです。

もちろん自分が会社の社長であれば、自分と100パーセントマッチした環境を手にすることができるわけですが、自分で事業を起こす能力が現時点でないのなら、社長のマインドとの親和性はかなり重要度が高いと思います。

 

Amazon CAPTCHA

 

イケダハヤトさんも絶賛しておりますが、メタップスの佐藤さんの「未来を先回りする思考」は多くの人が評価すること大の名著です。

僕はこの著書を読む以前からメタップスへの憧れが高まり、転職を試みたわけですが、この本を読めば誰しもが佐藤さんのカリスマ性や先見性に惹かれると思います。

 

僕は高校生辺りから授業に行くのもままならないほどの社会不適合感を発揮しており、ほとんどの時間を図書室で過ごしました。

そこで活字が苦手にもかかわらず様々な文献に触れた結果、メタバース(ネットワーク上のVR空間)が2017年ごろには一般的に普及すると考えました。

実際のところそこまで普及はしていませんが、その頃の未来予測はおおよそ当たっているかなと思います。

未来というのは過去の歴史をたどれば大まかには予測可能です。

たとえ予測が外れても、過去を誠実に紐解いていくことを怠らなければ、いくらでもやり直しが可能です。

そういう考えがあったので、大学では歴史のゼミに入ったのです。

まあ、ほとんど何も勉強しておりませんでしたが。

 

そんな思考方法を独自で私は編み出していたのですが、この本に描かれている佐藤さんの思考法も僕にかなり似ていると感じました。

また、僕は「金」によって行動を制限されていると感じ、歩みたいキャリアを十分に満足した形で選択することができなかった。

そういう意味でもメタップスが目指す「金にとらわれない経済圏」に強い共感を覚えましたし、この方の近くで、事業について学び、働いていきたいと考えました。

 

今振り返るとこのように思いを言語化できるのですが、私は対面コミュニケーションを非常に苦手としていることもあり、面談では全く伝えることができませんでした。

また、やはりメタップスはかなり急成長しているベンチャーであり、求める人材のスペックに達していなかったことも、大きいでしょう。

 

つまるところ、メタップスで働くことは叶わなかったわけでありますが、この会社が大きくなるのを今の会社から指を加えて見るのも、なんだか辛いものがあります。

まあ、ゆくゆくは会社というシステム自体、全く意味をなさないものになるので、会社に受かった落ちたで一喜一憂する必要もないでしょうが。

 

そういうわけで、新卒3ヶ月目で転職を試みた結果、なんの手応えもなく落ちたわけですが、だからといって今の会社に留まり続けることは、僕の精神を相当蝕むことになり、いうなれば寿命を減らします。

 

人生の貴重な時間を消費するならば、納得のいく場所で、人生を費やすに値する価値を価値を生み出さなければならない。

 

全くもって今後のキャリア展望が白紙に戻ったわけですが、模索する時間も限られています。

 

今思うのは、空から1億降ってこないかなという、経済的自由の獲得願望です。

経済的な不自由さほど人の独創性や想像力を蝕むものはないでしょう。

タップスには金から人間がもっと自由になって、満足いく人生を送れる日を早く実現して欲しいです。

 

とりあえず今現在の最重要マターは、金と欲にとらわれ、ついでに自分の脳みそにもしばられ、人間には見放される僕が、よりよいライフを送れる選択と行動をすることでしょう。

 

 

人間はある程度の確実性を未来に信じて生きているらしい

今、3歳児がプロ野球選手を目指して野球を始めたとする。

 

彼の夢はプロ野球選手だ。

 

まだうまく振ることすらできないバットを一生懸命持ちながら、未来のイチローを目指し始めた。

 

ところで彼が大人になる頃にプロ野球選手という職業は存在するのだろうか。

 

なんてことを彼や彼の両親は考えることはない。

 

考えたからといって、彼が野球を辞めることはない。

 

彼はプロ野球選手になるために野球をやっているのではなく、野球が好きだからそうしているのだ。

 

 

 

人間は誰しも夢中になれたもの、好きだったものを抱えて生きている。

けれども、現実という壁を目の前にして、理想の自己実現とは異なる道を歩む人がほとんどであるらしい。

 

そこにはある程度の確実性を信じて大企業に行けば安泰だとか、まあいろいろ考えて、進路というものを決める心理があるらしい。

 

私はこの確実性というものを一切と言っていいほど信じていなかった。

というよりも、ほとんど何も信用していなかったし、今も信用していない。

自分のことすら信用していないから、明日何を考えているかもわからないし、自分の行動には常に不安が伴う。

早く人工知能に最適な意思決定を委ねたいとすら思っている。

そこで死を選ぶのが最適だと言われても、おそらく信じることはないだろうが。

 

ある程度の確実性というものを信じているから、人は頑張れるのだと思う。

将来なりたいものや、目標があり、それに向けて計画を立て、実行する。

これこそが人間が自己実現を行う最善かつ最効率な手段である。

その目標に疑念を抱いたりはしない。

抱いても、それに対してはある程度の意思で思考停止あるいは思考の外に外す。

 

でなければ、人は目の前のものに集中することができなくなる。

これをもしかしたらADHDというモノに分類するのかもしれない。

 

私は常に疑っていた。

世界を。未来を。

 

疑えば疑うほど、目の前の現実に集中できなくなり、常に思考を未来に置いて考えてしまう。

そもそも未来に有益になりえないと判断したモノには、一ミリも労力を払いたいと思えなかった。

有益かどうかはその時にならないと判断できないのであるが。

普通はそう考え、とりあえず思考を停止させて実行を行う。

人間とは実に器用で、うまくできた生き物だと思う。

 

私はそれがどうしてもできず、なにも集中できず、何も実行できなかった。

 

けれども幸か不幸か、気まぐれとハッタリでなんとかここまで生きることができた。

 

私が予測していたであろう25歳の未来が、今目の前にある。

 

私は私が予測していた未来を体現できているだろうか。

そもそも私が予測していた未来とはなんだったのか。

不確実性に塗れた未来は、そもそも存在などしなかったのではないだろうか。

 

それでも私は今を疑っている。

今を疑い、未来を予測しようとしている。

未来のために、今を過去にできない不器用な私が、今もいる。

たいていの場合、人の行動と思考はおそらく比例している。

 

今を基準に考える今的思考の人の行動は今に起点がある。

そういう人は得てして行動力が高いように思う。

そして行動力が高い人の中には大成功する者、大失敗する者どちらも存在する。

いわゆる成り上がりタイプ、ヤンキータイプである。

 

未来を基準に考える未来的思考の行動は未来に起点がある。

このタイプにはふた通りいて、未来に向けて今を着実に実行できるタイプと、

未来を疑い、今を疑いすぎるため行動が常に遅れるタイプだ。

前者は自分が規定した未来を疑わず、ある程度仮説として信じることが意識的にできる。

たとえ未来が自分の仮説とは異なっていても、修正し、行動を正しながら実行を着実に行う。

一方で後者は常に未来の予測を行い、頭の中で修正に修正を重ねながら、実行動は何も進んでいない。

これがADHDというモノの実態ではないかと私は思う。(思ったりもする。)

 

最後は過去を基準に考える人だが、これについては語る必要はないだろう。

過去の歴史的事実を基準に未来を予測するという者でない限り、このような者に未来はない。

自分の過去を基準にいくら考えても、そのさきにあるのは自分の過去にすぎない。

過去から脱却しなければ、今まで生きてきた自分の過去をなぞるだけの未来が、そこには待っている。

 

 

確実な未来、確実な今、確実な過去。

どんな確実があったとしても、確実は現実にならない限り、不確実である。

考えている確実は、すべて幻想と言える。

現実となった確実でさえ、その次の瞬間にはすべて過去となる。

過去は確実ではなく、人によって不確実に変容していく。

過去の確実を証明することなど、人には不可能なのだ。

 

私は幸か不幸か、確実な未来を進むことも想像することもできない。

常に不確実な道を選び生きていくしか道はないのだろう。

今ある全てが私にとって不確実である。

人もモノも金も、なにもかもが。

私という不確実な存在は、未来においても確実を伴うことはない。

その意味で私はずっと透明であるのだと思う。

私にできることはおそらく、透明であるがゆえ、確実の土壌に誰しもが乗った時に、声高々に不確実の可能性を叫ぶこと他ならない。

私が何故生まれてきたかを考えれば、私にしかできない確実なことが見えてくる。

 

 

 

 

 

そしてこんなことを考える。

 

人間がある程度信じている確実性というモノに、幸せの何かがおそらく含まれているのではないかと。

メタバースへの投資が今後、急加速するというかなり期待値の高い予測

 

 2017年、clusterがDeNA、エイベックスから資金調達を行った。

 

jp.techcrunch.com

 

 

 

clusterは端的に言うとネットワーク上のVR空間、いわゆるメタバースである。

 

メタバースとしては約10年、セカンドライフというサービスが話題になったことを覚えている人も多いだろう。

 

結局のところ、セカンドライフは定着することはなかった。

 

セカンドライフにはUI/UX的な問題やサービス自体の不具合も多く、決して一般ユーザーが必要とするものではなかったことが普及に繋がらなかった要因であろう。

 

当時、電通慶應義塾大学トヨタなどが一二を争うようにセカンドライフに投資した。

 

新しい技術・サービスに対する過度な期待が外れた一例であるが、だからといってこれ自体が「メタバース」への可能性を下げるものではない。

 

当時はメタバースというものがタイミング的に必要な時期ではなかったというだけに過ぎず、またセカンドライフというメタバースの一サービスが流行らなかったという事実だけが、この出来事からわかることである。

 

そして、その急先鋒として私はclusterが爆発的に流行るのではないかと思っている。

理由としては以下。

 

1.clusterは人口密度の高い有限空間を形成する

 clusterはメタバースであるが、セカンドライフやマインクラフトのようにほぼ無限の空間というわけではない。

主にプレゼンテーションを行うような教室や、アイドルがライブを行う舞台のような比較的狭い空間に、目的意識の持ったユーザーを集めるサービスである。

セカンドライフであればほとんど制限なく無限とも言える空間を行き来することができるので、ユーザー同士が交わる頻度が少ない。

そして目的が特にあるわけでもないので、どこかに終結することもない。

ユーザーと関わることでコミュニケーションが生まれ、イベントが発生する。

世界における生きがいの本質であり、それは現実でも仮想空間でも変わらないことだ。

無限の空間でユーザーとの関わりもなければユーザーはその世界に次第に飽きてしまうだろう。

その点clusterではプレゼンを見る、アイドルのライブを観るといった目的やユーザーとの接触がある。

同一の目的を持ったユーザーと視覚的に接触できるというのは、現実世界でファン同士が集まるオフ会に近く、ユーザーのメリットは大きい。

DeNAが投資していることから考えれば、showroomのようなサービスと結びついて、アイドルのライブ会場でユーザー同士が交流をするという現実世界のコミュニケーションを、cluster上で行うことも可能だろう。

clusterがエンターテイメントでのイベントやビジネスでの会議をネットワーク上で代替してくれると考えれば、市場価値は大きいはずだ。

 

2.経営者含む経営メンバーのレベルが高い

これはサービス自体の評価ではないが、サービスが流行るのには欠かせない重要な要素であると思う。

実際にお会いしたことはないがCEOの加藤氏やそれを支えるメンバーの経歴を見る限り、ぽっと出のスタートアップとは全く異なる飛び抜け方をすることは想像に難くない。

特に加藤氏の京大大学院中退からの経歴はドラマとしても非常に魅力的であるし、彼の非凡な才能、技術力や人間性を表している。

 

image.itmedia.co.jp

 

 

幾らサービスやアイデアが良くてもそれをクオリティの高い形にし、世の中に広める力がないとなかなか世の中に広がることは難しいだろう。

逆にメンバーや人間の能力が高ければ、期待値は大きい。

思考や行動のフレームワークがずば抜けてさえあれば、人間は汎用的に突出することができるし、逆も然りである。

 

 

 

メタバースは今後、急加速して人々の生活に溶け込むだろう。

 

そもそもwordwidewebというのが二次元上のhttp://からはじまるwebページに止まっていること自体が不自然である。

 

ネットワークと言っているわりにただの文字情報、動画情報の二次元空間での連結で終わってしまっていてはネットの可能性もくそもない。

 

インターネット上のショッピングモールという言葉からは本来、現実世界の商店街のような三次元的な空間を想像できたはずだ。

 

しかし、いまやその言葉から想像できるのは「楽天」になってしまっている。

 

あのようなただPV数を稼ぐためだけに、わざとわかりにくく回遊させるようにしているとしか思えないUIのwebサービスが今後も残り続けることにはかなり疑問である。

 

というか、気持ち悪いな、2030年に楽天があったら未来に失望だな。。。

 

 

 

 

そもそもなぜ今、二次元のwebページが主流であるかといえば、それはデバイス側の問題が大きいだろう。

 

画面という二次元デバイスでアクセスしているのだから、webページが二次元なのは必然的な流れである。

 

であれば、まずデバイス側の変化が起こるはずだ。

 

幼少期、有機ELの存在を知った時は数年以内に画面は全て自由自在に持ち運べて曲げたり折ったりすることができるようになると思っていたが、最近の報道を見るにそれはどうやら有機ELに対する過度な期待だったかもしれない。

 

今後、画面デバイスは画質的な進化と物理物質的な変化を加速させると思われるが、世の中の流れは8Kなどの画質的な進化への期待値のほうが大きいようだ。

 

物理物質的な進化を遂げるには有機EL以外の新たなアプローチも起こりうるだろう。

 

現在、メタバースにユーザーがアクセスするもっともUXの高い手法はVRによるものだろう。

 

VRゴーグルで視覚的にアクセスすることで、メタバースを視覚的に味わうことが可能だ。

 

ただ最終的にはBMIをネットワークにアクセスする試みが広がり、脳とメタバースは完全に統合されるはずだ。

 

BMI(ブレイン・マシン・インターフェス)は現在、非侵襲型のデバイスが主流である。

しかし、脳と完全に統合するには侵襲型デバイスの開発が求められる。

 

もっともそれは手術などの外科的な行為を必要とするものでなくてはならない。

 

 

 

オキシトシンなどの脳の前頭葉前部に影響を与える投薬とBMIをうまく組み合わせ、半侵襲的な仕組みによって、現実世界とほとんど変わらない感覚をメタバース上で体現することはいずれ可能になるだろう。

 

まさにマトリックス20世紀少年もしもボックスのような世界であるが、現実として不可能ではないし、それが人類を救う唯一の方法になり得るというのが私の10年来の持論である。

 

 

 

 

 

なぜ世界をもうひとつ創らなければならないのか?

 

 

大学の講義である教授が言った言葉が印象に残っている。

 

「みなさん、職業に貴賎はないっていうでしょ。いや、職業に貴賎はあるんですよ。」

 

教授が言った意味はいくら職業に貴賎はないとキレイゴトを並べても、社会は学歴や職業、会社で判断することが多いという社会のリアルを表すつもりで述べたのだろうし、私もそう解釈した。

 

教授が東大法学部卒の官僚でHarvardでMBAを取得した大学教授という社会的に立派な職業所持者であることとはもちろん関係がない。

 

その言葉で教授の人間性を疑うものはおそらくひとりもいなかったし、事実、非常に人柄のいい人間的にも立派な教授だった。

 

慶應大学にはその社会的信用性を巧みに利用する学生が多く、その後も名だたる企業に所属しそのブランドを最大限に発揮し、巧みに社会を生き抜く人間がほとんどである。

特に名だたる企業に入るとその信用性を利用しない手はないし、利用できるものはすべて利用するのが賢い人間であることはもっともだ。

 

なので、「職業に貴賎はある」という言葉は社会という存在との関係性を考えれば、妥当な言葉であると思う。

 

それでも、私は職業には貴賎はない、という意味を考えたい。

 

正しく述べれば、少なくとも職業と貴賎は直接的に結びつかない。

正しくは貴賎の目的語は職業ではなく、社会になる。

社会の中に貴賎という概念が含まれているのだ。

もちろん職業は社会的な役割を指すので、

職業に貴賎はあるも、社会という大きな枠組みに貴賎があり、

社会に職業は含まれているので、正しいといえば正しい。

なので、私が言いたいことを正しく述べれば、

「職業(という社会的役割(を担っている人間単体)に貴賎はない。」である。

 

社会という概念は頻繁に使われる割に実態が見えにくく、

ぼやぼやしているが突き詰めて考えれば人の集合体であり、人の考えの集合体だ。

その中には様々なノイズ(に見えるもの)が存在し、人間の目に靄をかける。

目を正しく養えば本質が見えるのだけれど、大抵の人はノイズに左右され

実態のある形を見ることはできない。

 

私は高校卒業した後ニートであり予備校生であり引きこもりでありニートであった。

社会的に思われている私はそういう役割である。

実際に社会的な人々から私は「排除」され、そういうものとしての扱いを多分に受けた。(という私の偏見が入っているが、実態とは異なる)

そんな私が慶應義塾という大学に入ると、社会的に「慶應義塾大生」になった。

私が想像していた以上にその名前には影響力と社会的価値があるかのように、社会的に扱われた。(もちろん、価値はない。)

ただ同じ大学の中では当然のごとく同じ共同体であり違いはないので、そのような扱いはなく、通常の社会と同じようなノイズで見られることとなる。

例えばコミュニケーションの取り方や挨拶、外見、喋りの面白さ、スキルの高さ、表情、その他もろもろの現れる要素。

そのような目で見ることのできる要素で人はその人が何を考えているのかを類推し、判断する。

楽しそうな人には人近づき、不満そうな表情の人からは人は離れる。

当然のことだ。

人間はそのひとの外見や言葉、現れる何かで判断するしかない。

では、果たしてそれが本当に正しい判断なのだろうか。

いろいろな要素から判断した、「人」が本当にあなたが考えている「人」なのだろうか。

 

「この人は一体何をかんがえているのだろう。」

そんなことは現れているものをいくら見てもわからない。

なぜなら、現れている要素は全てノイズでしかないからだ。

人間の本質はそこには存在しない。

本質なんてものがあるのかどうか、それを疑うものもいるが、

本質なんてものの存在は明らかだ。

誰が何を考えているか、一体どういう人間か。

自分の中の自分とじっくりと向き合えば答えはおのずとでる。

生半端なじっくりではない。

考えに考え、突き詰めて考えればそこまで苦しまなくとも、はっきりと実態の伴った自分が見えてくる。

 

ほとんどの場合、ガワでしか人間は判断ができない。

何故か。

当然、ガワでしか考えていないからである。

自分のガワで考えに考え、要素を分解し、その先を見ようと試みても、ガワしか見えるわけがない。

ガワで考えると、ノイズしか見ることはできないのだから、ノイズを材料として判断せざる得ない。

そういう意味ではノイズがどのようなものか、非常に重要なのだが(社会を器用に生き抜くには)、全体で考えれば社会にノイズが量産されていく一方である。

社会全体がノイズで溢れかえれば、ノイズを高めるためにガワで考える人を量産し、やがて本質のない社会となる。

もはやそれは社会とはいえない。

社会としてなんとか形付いているように見えるものが、靄だらけの姿となり、やがて靄となり、消滅するだろう。

 

具体的に言えば、あらゆる面において人は人を許容できなくなる。

自分では理解不可能なもの、自分とは異なるものをカテゴライズし、他者との間に境界線を築く。

それは新たな社会を生むことになるが、加速度的に分裂に分裂を続け、社会は個人の集合体から、個人と個人がただ「いる」だけとなる。

誰も社会の一員ではなくなる。

誰しもが生きづらい、「社会」となる。

 

本質は誰しも一緒である。

突き詰めればわかるが、同じなのだ。

どんなに脳に障害を抱えていても、

どんなに頭が良くとも、それは変わらない。

考えていること、は一つしかない。

それはここで言語化することはできない。

言語化できないものは何一つなく、言語化できていないとすれば、

それは理解できていないこと、という見方もあるだろう。

それを全く否定するつもりもないが、

ここで書くことはできない。

 

とある殺人犯がいる。

自分と関係のない人々をトラックではね、ダガーナイフで次々と刺した。

罪のなき命が数多く奪われた。

止めに入ろうとした警察官が犠牲となった。

犯行の動機は、「何もかもが嫌になった」だそうだ。

当然、犯人は最高裁で死刑が確定した。

 

果たして彼の考えていることがわかるだろうか。

彼のことを許せるだろうか。

被害者の二度とない人生を身勝手な理由で奪った彼を。

何の落ち度もない被害者たちの家族の気持ちを考えて、

許すことなどできるだろうか。

 

残された彼の両親や、被害者遺族はどのように生きていけばいいのだろうか。

彼らの人生に希望はあるのだろうか。

そして、彼、本人の人生に。

 

許せないのは当然の感情であるし、許せとは誰も言わないだろう。

 

しかし、別の見方をすることはできる。

 

世界にある砂の数は一体幾つだろうか。

砂場ではなく、砂一つ一つである。

おそらく、ほぼ無限に違いない。

その中に星型の砂はいくつかあると思うか。

「ある」と思う人が大半ではないだろうか。

 

もっとマクロに考えてみる。

目の前にコップがある。

このコップは量子の集合体でできている。

量子は最小単位の実態のある要素だ。

通常は決して肉眼では見えることのない速度で飛び回っているのだが、

偶然私たちの目の前に見える瞬間だけ、その場にとどまりコップを形成している。

次の瞬間には分裂して消滅するかもしれない。

もちろん、常識的に考えてありえないことではあるが、決して0ではない。

そして、この瞬間にコップとして我々が見ていることも逆に考えれば、

決して0ではない確率の末に存在する結果にすぎない。

無限とも言える数ある量子が、このような偶然を形成する確率は、

0ともいえるような確率なのだが、その現実を我々は目撃している。

 

人間は無限には存在しないが、人間自体が量子の塊であることを考えれば、

その存在・行動・考え、すべては0ではない確率の中から生まれている存在である。

次の瞬間にはスターバックスでコーヒーを飲んでいるあなたが、車にひかれて死んでいるかもしれないし、バッタになっているかもしれないし、総理大臣になっているかもしれない。

ありえないと直感的には思うが、車にひかれて死んでいる確率は相当ありえる話だ。

 

言いたいことはだいたい理解できたと思う。

 

では、そういう極めて低い(と同様の確率で幸せな日々をきづいている人々が思っている)確率で「絶望」に飲み込まれてしまった人々を救うことはできるのであろうか。

社会のありとあらゆるノイズを取り除き、すべての絶望を消すことはできるか。

当然、不可能である。

人間は神ではない。

超人はいない。

社会問題、個人問題、ありとあらゆる諸問題をすべて解決することはできない。

けれども、このありとあらゆる問題のはびこったノイズだらけの世界から逃れることはできる。

逃れることは死ではない。

死の先には世界は存在しない。

絶望は自分自身の生にあるのではなく、常に世界に存在する。

たとえ自分自身の生に不満を抱き、絶望していたとしても、それはガワの話である。

ガワの存在しない、世界に行けばいい。

ガワの存在しない世界は、テクノロジーが現実世界に作ることを許してくれる。

 

世界を創ったのは神なのかもしれない。けれども、世界のノイズを創ったのは人だ。

世界は決して最悪でもなければ、最高でもない。

素晴らしくもなければ、美しくもないし、汚れてもいない。

ノイズがそう、見せているだけだ。

だから、テクノロジーで新しい世界を創ればいい。

ノイズのない、本質だけの世界。

本質には争いは存在しない。

差が存在しない。

差が存在しなければ幸福も不幸も、もちろん存在しない。

そんな世界の何が楽しいのか、と思うかもしれない。

で、あればまた新たな世界を創ればいい。

ノイズに満ちた世界を。

それを好むのであれば、創ったって構わない。

世界はもう一つではない。無限に存在する。

無限と思えるぐらい、ありとあらゆる世界を創ることをテクノロジーは許すだろう。

それに対してネガティブな見方をする人も多いと思う。

けれども、絶望よりはマシではないか。

世界はよくなければならない、世界の紛争を無くす努力をしなければならない。

そんな言葉で世界が変わるのであれば、絶望は存在しない。

 

世界を変えるより、世界を創る。

絶望を希望に変えるより、絶望から逃れることを考えろ。

絶望に効く薬は、希望ではない。

絶望のない世界だ。

 

 

 

 

 

 

人生の密度

僕は 1991年生まれ、25歳。

 

もうこの歳になると25歳という年齢以外に共通点はないほど、

ひとは変わっていく。

 

成功しているもの、失敗しているもの、平凡なもの。

様々な人生があり、ドラマがあり、結果がある。

 

成功している人は、それはそれは羨ましい。

すごいよ。

 

失敗している人は、それはそれで羨ましい。

だって、数多くの挑戦をしてきたんだから。

すごいよ。

 

平凡な人は、すごく羨ましい。

平均的な幸せの中には、友達や収入やいろいろな平凡と君が思っているすべてがつまっている。

すごいよ、すごく羨ましい。

 

でもね、25歳っていうとそこそこ長いよね。

人生50年の国なら、人生の半分は終わったよね。

70歳から75歳の5年と20歳から25歳の5年は違うからね。

何をやってきたか、何を感じてきたか、どういうひとと関わってきたか、

それってすごくすごく重要だと思うんだ。

 

だから、25歳にして、空っぽの人生を歩んできていることが、

一番嘆かわしいことだよね。

人生の濃度はそんなに変えられることじゃない。

25歳にして何ももっていないんだ、僕は。

お金とか人間関係とかそういうことももちろんあるけれど、

そうじゃない。

経験の濃度が圧倒的に薄すぎる。

 

だから、いま、すごく絶望してる。

取り戻せない時間を、取り戻そうと必死に悩んでいる。

いったい僕は、この数年間、いや10年、なにをやってきたのだろうか。

何を考え、生きてきたのだろうか。

 

お金も知識もスキルも教養も経験も言葉では語れないすべてがぽっかり。

ぽっかりだ。

僕にはない。

 

小説家になりたい、そう思った17歳。

でも、描くものがない。だから東京に行こう。

そう思って東京を目指した。

東京に行くまで2年かかった。

村上龍のようにその2年に描くほどの経験はなかった。

だから、大学に入って得よう。そう思った。

けれど、大学に入ってからの数年は、東京にいない頃の

数年と同じだった。

僕は引きこもりだった。

僕はニートだった。

僕は、普通の人間じゃなかった。

 

そして今、普通の人間になろうとして会社に入った。

でも、僕はそもそも違った。

側はなんとなく同じだったけれど、側だけだった。

だから、僕に普通は通用しないんだと思う。

世の中の普通は、普通の人間ようにできているのだから。

 

僕は25歳。

5年間、僕は20歳。

5年前と同じことを僕は書いています。

5年前と同じことを僕は考えています。

5年前と同じように僕は絶望しています。

5年前と同じように会社(大学)を辞めれていません。

ここに意味はないのに。

これから僕はどのような人生を歩むのでしょうか。

きっと想像と同じでしょう。

その想像が外れますように。

それだけが唯一の希望です。

 

変えたい。

僕を変えるのは、結局僕しかいない。

変わらないという想像が、

きっと変わりますように。

 

変えるには、何かを変えるしかない。

独学に必要な集中力について思うこと

独学の重要性

 

独学スキルは人生においてかなり重要だと思う。

どのくらい重要かというと人生の成功不成功を左右するくらい重要だ。

基本的に人間は独学でスキルを習得する。

人に教えられているようで、自分で習得しようとしない限り、自分で身につけない限り、何も身にはつかない。

分野によって向き不向きはあるにせよ、独学は人間誰しもができることだ。

例えば受験勉強。

受験勉強は基本的に独学だ。

参考書を読んで自分で暗記して勉強をすると言ったいわゆる独学から、

予備校に通って勉強するスタイルまで、

勉強スタイルは様々ではあるものの、すべて自分で習得しなければならない。

予備校に通うだけで、自分で復習をしなければ学力があがることはないだろう。

予備校に通うメリットは勉強習慣のライフスタイル管理が大きい。

自己管理までできれば、完全に独学でいいのだが、多くの人はなかなか難しい。

できるひとにとっては予備校は独学の手段に他ならない。

すべてを自分の力で行うのではなく、一部を道具を用いて代用する。

独学が得意な人は、どんどん道具をもいることができる。

 

全ては独学

これは何も勉強だけにとどまらない。

スポーツも楽器も基本的には全て独学である。

独学というのは「すべて一人で行う」のではない。

人という手段を用いて、自分が習得しやすいように勉強するのも独学だ。

だから、基本的には何かしらのスキルを身につけようとするとき、全ては独学でしかない。

もちろん、そこに人に教えてもらうこともあるだろうが、それは良い教材を用いるに他ならない。

スクールに通うのも、自己管理という独学の一部をより質の高い学びのためにゆだねることだ。

 

独学に必要なもの

と、ここまで独学について思うことを書いた。

いわゆる一般的な「独学」とは異なることは多だろう。

しかし、本質においてスキルを身につけることは、独学が意味することのそれである。

自分で学ぼうとしないもの、学ぶことができないものは、何かを身につけるのはむずかしい。

では独学に必要なスキルとは何か。

これは人間多かれ少なかれ誰しもが持つ「集中力」である。

集中力が多量にあれば、あるいは普段はそこまで高くなくとも、過集中する能力があれば「スキル」の習得はたやすい。

たいていの人は向き不向きがあるのでスポーツの習得はたやすくとも、勉強は全くできないとか、ゲームはプロ並みにできても楽器は難しかったりする。

けれども、集中のフレームワークを器用に扱うことのできる人はたやすく東大に合格し楽器もスポーツもでき、仕事もバリバリこなせたりするものだ。

あるいは集中が万能ではなくとも、一分野には秀でたスキルを持ち成功するものもいるだろう。

そこまで集中がずば抜けてなくとも普通の集中力があれば本を読むことも楽器を弾くこともいずれはできるようになる。

 

集中のないさまよう人たち

しかし、全く何のスキルも身につけることができず、世に放たれるものもいる。

俗に言う注意欠陥多動性障害ADHDの人々だ。

彼らは集中ができない。

社会的な集中しなければならない状況が極めて苦手だ。

かといってどうでもいいときにまわりが見えなくなる。

これがうまい具合に過集中として得意なことにフィットすればいいのだが、

なかなかそうもいかない。

過集中を発揮し、スキルを構築できれば成功を手にできるが、

たいていの彼らは単純に集中できない、社会不適合なひとだ。

彼らは楽器も思うように習得できないし、本も満足に読めず途中でやめてしまう。

文章を書いてもすぐに放棄し、ブログも続かない。

とにかく続けることが苦手である。

 

そして私もこの集中できない人に当てはまる。

なぜなら、もうこの文章を書くのが嫌になっているからだ。

読まずに捨てた本はたくさんある。

開設したままになったブログも星の数ほど。

何かビジネスを始めようとしてそのままにしたアイデア帳。

書きかけのソースコード

つくりかけのDTMのファイル。

買ったまま放置の電子ドラム。

5年間曲ひとつ引けずに終わったギター

問い合わせしてそれっきりの習い事、スクール、就職支援サービス。

すべてが中途半端で、手を出しては見るけれど最後まで完結したことがない。

私の小学6年生の頃の目標とする4文字熟語には

「徹頭徹尾」、そう書いてある。

一度も徹頭徹尾、完結させたことはありませんよ。

ただいただけで卒業できた大学、高校や、

辞めるの一言が言い出せなかった部活は除く。

満足に集中して取り組めたものはない。

唯一あるとしたら、絵だ。

小学生の頃、絵ばかり描いていた。

楽しかったな。

けれど美大には結局行かなかった。

行かなかった時点でその道はないのだろう。

けれど、なんだこのモヤモヤは。

会社員全然集中できないぞ。

 

集中できないノイズ

これはあくまで言い訳。

多分脳内のワーキングメモリーが少ない。

少ないから不安や心配があると、一切集中ができない。

私がここ10年ずっと集中できない心配。

それは金だ。

やりたいことをするには金がいる。

金がいるから働かないとならない。稼がないとならない。

でもそれはやりたいことじゃないから集中できない。

そんな感じ。

なんて社会不適業者なんだろうか。

本当にやりたいことならお金関係なしにやるのにね、普通は。

でも、それができない。

金で頭がいっぱいになり、全然集中できないのね。

これが甘えかADHDか、まあ、どちらでもいい。

私はそういう人間なのです。

非常に不器用な社会不適合者。

私が適合できる場所と金、そうねせめて1000万。

今日もまた金のことで頭がいっぱいで、頭の集中を邪魔します。

 

なので、今日は金のことを集中して考えています。

 

 

自慰行為とセックス

なんで生きているかというと、大半の人は幸せになるためと言う。

人それぞれ価値観があり、生き方も生きる目的も多様であるので、是非を問うことはできないだろう。

 

では、幸せとはなんだろうか。

幸せの定義とは明確に存在するのだろうか。

秋元康が幸せの定義を30までに決めていない人は幸せを享受できないと言っていた気がするので、もう一度幸せの定義を再確認したいと思う。

 

幸せとは、快楽とは異なる。

快楽は脳内の主に前頭葉前野部におけるドーパミン放出量に寄与する。

ドーパミン放出量を増やせば快楽に浸ることはできるので、ただひたすらに覚せい剤を吸引し続ければ「快楽」を満たすことはできる。

あるいはセックス、オナニーなどによって絶頂に達すれば快楽は得ることができる。

また、スポーツやコミュニケーションなどでも脳に「快楽」を感じることは可能だ。

意外なところでいうとカレーライスを食べることも、腸内刺激により脳内のドーパミンを増やすことができるので「快楽」を感じさせる行為である。

 

しかし、カレーライスを食べてオナニーをしても幸せとは限らない。

私はおそらく人生の幾つかの時間においてカレーライスを食べた後にオナニーをしたと思うが、決して幸せではなかった。

 

自身の幸せの定義が定まっていないのにもかかわらず、他者の幸せに寄与することは難しい。

けれども、世の中には誰かを幸せにすることが自分の幸せであるという主張をする者がいる。

もちろん、それは賞賛すべき素晴らしい思想であると思うし、そのためにモチベーション高く行動できるならば、幸せな人なのだと思う。

ただ、はっきりと言いたいのは「誰かのために何かすること」は「誰かのため」ではないということだ。

誰かのために何かしたいと思うこと、何かすることは100%の自分の「エゴ」である。

自分の幸せのために、誰かの幸せに寄与したいのである。

必ず、自分の幸せのためにが前に来るはずだ。

社会のために、誰かのために、そういうモチベーションで行動できる人は素晴らしいと思うし、全く批判するつもりはない。

素晴らしいかどうかは別として、自分以外の何かのために、実益として実際の行動が結びついているのだとしたら、事実、何かに貢献していることは間違いない。

 

だからそういう人にとっての幸せとは「他者の幸せのために貢献すること、自分以外の何かのためになること」なのだろう。

こういう幸せの定義は、私はありだと思う。

かくいう私もどちらかというとこの定義側に立つ人間だ。

 

人間は幸福を追求する生き物だ。

幸福追求権は自然法として元来の人間が持っている普遍的な権利だ。

では幸福を追求するとは何か。

 

大きく分けて幸福追求とは以下のように二分されるのではないかと思う。

 

・自分の幸せのために生きること

・(自分の幸せのために)自分以外の幸せのために生きること

 

前者の生き方が後者の前提に来るという話は先ほど書いた。

ここでいう自分の幸せのための行為、自分以外の幸せのための行為というのはあくまで表面上のものだ。

 

例えば前者にはお金持ちになる、やりたいことをやる、結婚して平和な家庭を築きたい、多くの友達に囲まれて過ごしたい、周囲から評価されたい、といった自己実現行為が含まれる。

もちろん結婚とは自分以外の誰かの幸せを願う行為であるので、後者にも被るのだが、ここでいう前者の行為とはあくまで、自分の生活上つながりのない他者が介在しない場合においての行為である。

いわゆる自分の幸せ、大半のひとはこちら側を幸せのあり方に定義していると思う。

というか後者の場合においても前者の幸せをなしにして、幸せとは言えない。

だから明確にはこの分類は不要であるし、曖昧である。

 

後者の場合は、社会のあり方を変えたい、世界を変えたい、自分と同じような境遇の人を救いたい、恵まれない人々の生活を変えたい、などがある。

何度も言うがもちろん後者と前者に明確な線引きはない。

なぜなら、後者も前者もエゴイズムには変わりないからだ。

どちらが立派であるとか、そのような評価にも意味はない。

 

ただ、前者の幸せがすべてであるとは私は思わない、というだけだ。

世の中ではなぜか、年収、人間関係、職業、世間体、キャリア、結婚の有無、など幸せのロールモデルがさも存在しているかのように、個人を錯覚させようとしている空気がある。

 

フリーター、正社員、派遣社員契約社員

こんな枠組みは社会や会社が規定した契約形態の違いでしかない。

フリーランス個人事業主、起業家、資産家、いうなれば働き方など無限であるし、個人を規定するものは何もない。

個人の幸せとこのような表層的な名称は一切結びつかない。

幸せにロールモデルは存在しないし、個人の幸せを追求する行為だけが、「幸せ」では決してない。

他者の幸せが個人の幸せに結びつくことだって多分にあるし、社会の幸せのために自分が犠牲になることで、自分が幸せになることだってあるだろう。

 

自分の幸せを追求する行為はオナニーとなんら変わらない。

オナニーは環境の変化とは無関係になされる。

環境がどうなれ、オナニーをすることはできるし、オナニーは環境に変化を与えない。

変化を与えているように錯覚しているだけである。

人間の99%が所属するオナニー団体に、何故入ろうと思うのだろうか。

より良いオナニーのために環境を変化させようとしているセックスを何故行おうとしないのか。

もちろん、セックスはオナニーの一部である。

ただどうせ同じ時間を過ごすのであれば、オナニーに付随して、オナニーの伴うセックスをしてもいいのではないだろうか。

 

セックスを一度もせず、人生を終えることに、一体何の意味があるのだろうか。

意味はあるのかもしれないが、それはオナニーに関わったごく一部の環境の変化でしかない。

ティッシュを汚し、自分の周りの床を汚し、部屋をイカ臭くする。

ただそれだけだ。

同じオナニーであるのであれば、部屋を汚し、野外で喚き、あるいは複数人とハプニング的にプレイをし、いろいろな人の感情に影響を与え、社会の仕組みを変え、世界を変えるセックスをするべきなんではないだろうか。

 

大きな視点で見ればどちらも大した意味はないのかもしれない。

単なる一哺乳類の生殖行為である。

 

で、あれば処女よりヤリマンがいい。

童貞よりヤリチンがいい。

 

世界を変えるのは常にセックスを追い求めた者だと、私は思う。

世界を変えるために、セックスをしよう。

 

 

なぜ会社を辞めれないのか?

なぜ人は辞めたい会社を辞めれないのか?

 

人によって様々な理由が考えられるが、大きく分けると以下のように考えることができる。

 

①金銭的な問題

②人間関係的な問題

③能力的な問題

 

①金銭的な問題

おそらくこれが最も多いだろう。

会社を辞めた場合、生活を律することができないという不安。

十分な蓄えがあるわけでもなく、明日の生活にも困窮の心配がのしかかる。

このような状態では辞めたくとも辞めるわけにはいかないだろう。

人間は意識的無意識的問わず、生命の維持に向けて最大限の労力を注ぐ。

十分な金銭を稼ぐ力が乏しく、明日の生活も心配するようであれば、

会社を辞めサラリーを供給されない恐怖から逃れることはできない。

そもそもその状態では会社に飼われているといった存在でしかなく、

その意味においては自立などしていないだろう。

また、会社からサラリーをもらっているという意識では自分で金の流れを把握することもできず、稼いでいるというよりおこぼれをもらっている状態である。

おこぼれをもらっている人間は一生飼い主の意向に逆らえない。

飼い犬は解放されても自ら檻に収容されていく。

 

ではこの問題を解決する方法はなにか。

それはただ一つ。会社に頼らず、会社とは無関係に金銭を得る経験をすることである。

初めは小さな対価でもいいだろう。

大事なのは会社とは関係ない個人としてのフィーを得るということにある。

稼ぐという行為は遠投のようなものかもしれない。

初めは数メートルしか投げれなくとも、慣れてくれば何十メートルと飛ばすことに

労力を割く必要は無くなる。

思考の自動化が行われ、自らの労働力を効率よく使うことができる。

ひとによっては「やりたいこと」があるかもしれない。

ただこの場合の金銭を得る経験は「やりたいこと」とは無関係のほうがいいだろう。

なぜなら「やりたいこと」をやることが目的ではないからだ。

金銭を得る経験が目的であるので、その手段においてノイズを増やしてはならない。

「やりたいこと」は金銭を蓄えてから集中しても遅くはないだろう。

そのこと自体、金銭を得ることで変わるかもしれないのだから。

変わらなかった時は本当にやりたいことを十分にやればいい。

 

②人間関係的な問題

これは③にも通づることであるが、人間関係的な事情で辞めることを言い出せない、もしくは辞めれない、辞めるという行為ができないといった問題である。

人間関係は人間の大部分が気にする重要な要素である。

人間関係は良好であっても不良であっても、それに伴う様々なストレスや問題が生じる。

例えば人間関係が良好な職場では辞めるといったことをなんとなく言い出しにくい雰囲気があったりする。

私は現在これに近い。

人間関係が悪くて辞める、辞めたいといった辞める側の理由に人間関係の不遇は多い。

けれども逆に辞める理由が明確にある場合は、人間関係が不遇であるほうが辞めやすいのではないだろうか。

人間関係が良好であればあるほど、言い出しにくい。

「なんで辞めるの?」といった声がどこからか聞こえてくるような、そんな不安に駆られる。

あるいは「周囲がいい人すぎて、辞めるなんて言い出すのが申し訳ない」といった思考に陥るとこの状態になるだろう。

 

③能力的な問題

これは単純に能力がないから辞めれない。

辞めるという行為ですらある程度の能力が必要である。

まずは辞めるという決断をする決断力。

優柔不断な人間、自己否定的な人間はなかなか踏ん切りがつかない。

踏ん切りがついてもなかなか実行ができない。

つまり行動力がない。

決断力と行動力、このどちらのバランスを欠いても辞めることは難しいだろう。

そもそもそんなことを考える前に辞める人は辞めている。

辞めるという決断の前に辞めるという行為があり、それが行動力である。

だから、多くは辞めたいと心の中では思っていても何年も会社にしがみつき、

タイミングを逃すのである。

しかし、そういうタイミングを窺う人に限って、行動を起こすと後悔するのである。

タイミングを見誤ったと。

 

そもそも良いタイミングなんてないのだ。

辞めたいと思ったとき、辞めた時。

それが最良のタイミングであり、それ以外の選択肢はあらかじめ存在しない。

 

人生には二度はない。

人生は時間の連続性の中に存在する。

時間に区切りなどは存在しない。

どのタイミングであっても、選択した結果である。

選択しない人生は、生きているとは言えないだろう。

ありふれた言葉であるが生かされている人生である。

生かされる人生に意味がないとは言わない。

どちらを選択するか、あるいは選択しないことも選択の結果だ。

人間は時間の連続性の中で選択の連続をし、日々を生きている。

だからこそ、選択を拒んでならないし、選択は常に目の前に訪れる。

訪れた選択に対して何が最良かなんて、選択しなければわからない。

 

だからこそ、信じられる選択をすべきなのだ。

自分の、唯一無二の二度と訪れない、人生なのだから。

海賊になることができるのに、どうして海軍に入るんだい?

 

 

 

 

 

 

発達障害という言葉を見ると、ついつい目を向けてしまうし、ドキッとしてしまう。

私自身、20歳の頃、自分がそういうカテゴライズをされる側にいることに気づいた。

私が匿名ブログに投稿したアスペルガーであることを嘆く記事は、年間ランキングでトップ10に入ったらしい。

 

でもだからといって、発達障害というレッテルを自ら貼ろうとはしなかったし※、そういう認識は自分だけがしてればいいと思って診断書は受け取らなかった。

 

実際は発達障害というレッテルをもらうために診断にいった。問診も検査も受けなくとも絶対的な確信があり、そこに自らを寄せにいった感は否めない。そのレッテルで私はある意味救われたし、発達障害でなかったらおそらく死んでいた。

 

そもそも発達障害の正式な診断ができる医師は日本にほとんどいない。

現在はほとんどブームのように簡単に発達障害の診断を下し、あるいは診断されなくとも、自分自身が発達障害だと思い込む人が多い気がする。

もちろん、自身が発達障害であるという認識を持ち、特徴を理解することで、自分の性格の問題ではないということで救われるのならなんら問題はない。

発達障害というものに対する社会的な理解が、進めば進むほど、当事者にとっては生きやすくなるだろう。

 

しかし、だからといって発達障害であってもなくても、その人の人生における問題はつきまとう。

発達障害を理由に、幸せになれない人生を歩んでしまっても、人生は一度きりなのだ。発達障害を言い訳にして生きても、辛いだけだろう。

そもそも発達障害を障害とする社会的状況のほうが、よっぽど障害である。

 

発達障害の多くは一般的な総合職としてのサラリーマン人生を全うするのは難しいかもしれない。

私もそうである。

おそらく、いや気持ちとしては今すぐにでも、会社を辞めたいと思っている。

 

 

www.gifted.academy

 

 

このスクール、もっと早く知りたかった笑

私は診断書は受け取ってないので、おそらく受講資格はないのだろうけれど、なんだかすごく悔しい。

このスクールの代表は私と同じ慶應義塾大学の在籍で、同じ1991年生まれだ。

そして私と同じようにADHDであると言っている。

私は自分が起業したり、人を巻き込む力がなかったり、プログラミングをうまく習得できないのは自分自身の発達障害に一因があると思っていたのだろう。

どこかでそれを言い訳にしていた。

しかし、違ったようだ。

代表と同じような背景を持つのに、私が「できない」のは、やはり私自身の能力、性格にやはり問題はあるのではないだろうか。

もちろん、障害の程度の問題や人生の背景、環境、あらゆるものは違うのは比較することはできない。(北海道の模試を受けていたと書いてあるので、北海道出身?だとすれば出身地も同じだ。)

ただ、非常に悔しく、辛い。

一方で、希望でもある。

発達障害を言い訳にしなくてもいいのだ。

言い訳にはできないのだ。

発達障害者は一般的な生き方を歩むのは難しい。

逆に言えば海賊になることができるのだ。

海賊になることができるのに、どうして海軍に入るのだろうか。

 

Why join the navy if you can be pirate?

 

 

※追記 

 

blog.livedoor.jp

 

5年も前なのに検索したら、あったよ黒歴史

さすがに盛りすぎだと思うけれど、このとき書いていた人生観というか今後の未来予測はかなり当たっていると思う。結局そのうち嫌われたり、人間関係を継続的に気付けないのは永遠に治らなそうだ。もう今は受け止めてるけどね。

自分を卑下して同情を買うような文章力はうまいんだな俺は、昔から。

 

 

2012年はてな匿名ダイアリー名作ランキング50選

 

年間ランキング35位だった。だいぶ盛ってた。

 

このときはなんとか解決出来るかなんて淡い期待をどこか抱いて大学生活を続けることにしたけど、何も解決しないで何も身につかず25歳になってしまったな。人間関係について言えば、さらに悪化した気がする。まあ、もういいけどね、うん、仕方ない。

大学辞めときゃって思うけど、辞めてもあんまり変わらないよなー。

俺は幸せにいつかなれるのかな。

 

月額20万円あれば、夢を追えるか?

自由に生きない時間は無駄

人間は、自由だ。

人生は自由に生きることができるはず。

好きなことだけして、ずっと生きていくべきなんだと思う。

けれどだいたい4割の人は好きな仕事をしていないらしい。

現在の私もそうである。

そういふひとには大きく分けて二つあって、好きなことがない場合と好きなことはあるけれど金銭的な問題で働いている場合だ。

後者の場合、もはや働くという行為は人生を拘束している。

自由に生きるべき人生が働くという行為で不自由にされている。

人間は好きなことをするべきだと思う。

金銭的な問題で不自由を強いられるのはとてももったいない。

社会的にも個人の人生においても損失が非常に大きい。

もしすべての人が好きなことを仕事にできたならば、生産性は大きく向上するのではないだろうか。

 

月20万円の保証

そういう意味でも月額20万は保障する必要がある。

20万あれば、東京でも不自由なく暮らせるだろう。

もちろん娯楽は大してできないが、最低限度の暮らしはできる。

私は一流大学を出て新卒で就職したが、手取りで17万程度である。

これでも一応生活はできているのだから、一人暮らしでも独身なら十分である。

この程度の経済的基盤さえあれば、集中的に創造的な行為に従事できる。

キャリアチェンジも流動的になるだろう。

かといって現在の日本の社会保障にそれを求めることは難しいだろう。

月額20万はそこまで大きな金額ではないが、一人で稼ごうとすれば大変だ。

ここでいう稼ぐはコンビニバイトなどではなく、受注などで個人が金の流れを掴みながら自分で得る対価のことである。

サラリーマンでも、会社に依存して生きていれば、バイトと本質的にはなんら変わらない収入の獲得をしている者は多いだろう。

そういう生き方には今後限界が訪れる。もはや、会社も社会も個人とかなり乖離して残り続ける。個人は個として生きていく力を身につけていかなければ、生き残ることは難しい。

個として生きる力

個人として生き抜く力を身につけていかねばならない。

これは私が10年間ずっと考えていることだ。しかし、未だその力が自分にはなんら身についていない。今、会社を辞めたら、私はアルバイトに従事するしかないだろうか。

個人として生きる力とは具体的にはなんだろうか。

プログラミングやweb技術だろうか。

コピーライティングなどの文章技術だろうか。

営業などのコミュニケーション能力だろうか。

はたまた経営者に求められるリーダーシップや人を巻き込む力だろうか。

湧いて出てくるエネルギーだろうか。

すべて正しいだろうが、すべてに備わっていなければならない当然の力はなんだろうか。

それは、自分で考える力である。

自分の頭で思考し、自分で取捨選択し、自分で人生を選び抜く力。

自分の行きたい人生や夢を明確にし、そこに邁進する行動力。

行動力とは極めて個人的な力だ。

誰かのせいだとか、環境だとか、外部的な要因を言い訳にしていては、行動などはできない。

行動するために何が必要か自分で考え、最適解ではなくとも、行動という行為を選び取る。

考えて、行動するのか。行動して、考えるのか。

人によって順序は別であっても、必ずこの二つが求められる。

逆に行動すること、考えること、このどちらかが抜けていたとしたら、

個人として生き抜くのは難しい。

 

大企業に属する、エリートコースを歩む

ここからは極めて個人的な話であるが、私は大学に就職するために行ったのではない。

慶應大学は世間的に一流と呼ばれる大学であり、就職すれば大半は日本を代表する一流企業に行く。

しかし、私はそこに対して何も羨ましいとは思わなかった。少なくとも大学に入る前は。エリートコースとは自分がかなり離れた存在であることは、すでに幼少期から自覚していたので、どちらかというとドロップアウトした成功者の人生に憧れた。

だから、お笑い芸人や映画監督、ホリエモンのような経営者に強い興味を抱いたのだ。

しかし、結局は就職してしまった。

そして、大企業ばかりを受けた。

大学で長期間過ごすにつれ、学歴に対するコスパを求めるようになってしまった。

要するに、もったいないと感じてしまったのだ。

なんて、卑しい人間なのだろうか。

結局のところ、超大企業には入れず、大企業の子会社に就職した。なんともパッとしない、一番望まないキャリアを踏むことになった。

そしてまた、大企業いいなあなんて思ったりする。

一方で、月額20万あれば、自由に生きようとも決めている。

フリーランスで、あわよくば自動収益化して20万稼げれば、キャリアプランはがらりと変わる。

大学とはモラトリアム期間であり、様々な環境に挑戦して、積極的にやりたいことを見つけるものとされている。しかし、その期間私は全くお金がなく、やりたいことに飛び込むことはなかった。つまるところ、行動力が乏しかったわけである。

けれど、やはり人間は自由に生きるべきである。

25歳は世間的にギリギリなのかもしれないが、人生50年と考えればまだ半分もある。半分もやりたくないことをやるより、やりたいことをやる10年のほうがよっぽど充実した人生であろう。

私は幼少期からずっとものづくりをしてきたし、それは本当にそれが楽しかったからだ。好きかどうかなんて考えたこともない。おそらく私はものづくりに関わっていないと楽しくない人間である。だから、そこにストレートに突っ込むべきだ。

非常に遅いのは重々自覚しているが、私はどのものづくりにすべての人生を捧げたいかが未だに不明確である。だから後5年はせめて、自由に好きなことにチャレンジして生きたいと思う。もちろん、月額20万と資金があればである。

具体的には以下の分野にパラレルキャリアを踏んでいくだろう。

 

・映像制作→デジタルハリウッドCGコースor映像制作会社

・漫画→漫画家アシスタント

・プロダクトデザイン→東京大学大学院or産業技術大学院大学

情報工学→IT系事業会社

 

人間は一つの分野しか歩めない、一つの道にしか進めないなんて、そんな常識に縛られていきたくはない。

得意不得意、向き不向きも、もはや本質的ではない。

金銭的不自由がなければ、いますぐ飛び込んでいくだろう。

現実的には資金として300万、月額20万の経済的自由がなければ難しい。

しかし、資金の問題で、時間を消費すると考えると、実にもったいない。

もったいなさすぎて、生きるのが非常に嫌になってくる。

ある意味ポジティブな意味で、死にたいと思うのである。

このままでは私はうだつの上がらないサラリーマンになるだろう。

どちらにせよ成功しないのならば、私はおもしろい人生を選択したい。

おもしろいというのは成功と失敗どちらにもある。

人に話した時に、1行で終わる人生は、もうやめよう。

 

結構みんな思考停止して働いていませんか

新卒で就職し、何年、何十年も同じ会社で働いている人がいる。

結構な割合、日本人全体で言うと半分ぐらいはそうなのではないだろうか。

 

この会社勤めの間に何か疑問を抱いたり、考えたり、しなかったのだろうか。

そんなはずは、さすがにないだろう。

いろいろ悩んだり、考えたり、会社をやめようとしたはずだ。

しかし、結局のところ、そうはしなかった。

 

これは行動力がないとか決断の先送りだとか、そんな言葉でくくれる程単純な問題ではないだろう。かといって、じゃあどうなのかと言われるとよくわからない。

自分には到底考えられないからだ。

 

ミュージシャンになれるならミュージシャンになりたいし、芸人になら今でもなりたい。サラリーマンとしてせいぜい1000万程度を目指して何十年も働くよりよっぽどいいと思う。借金2000万あっても、やりたいことをやれる人生は幸せだ。客観的にどうとかではなく、自分がどう思っているかが重要なのだから。

つまるところ、価値観の違いなのである。

仕事にやりがいいわいわよりも、現在の安定というものが余程大事な人が大半なのだ。

生活のために働いているのである。それが「ふつう」の価値観なのだろう。

では生活はなんのためにあるのだろうか。なんで、生きているのだろうか。

そこに主体性はあるのでしょうか。

生きたいと思って、生きているのだろうか。

多分、ちょっと違う。

大半の場合は、いきたいとかいきたくないとか考えずに、なんとなく自然と、生きているのである。

 

自殺する人間はバカだというけれど、自殺も考えずにのんべんだらりと自分が主体的に選択をして生きていると考え、集団に帰属しながら働いている大勢よりも自殺を少しでも考えるひとのほうがよっぽど賢いと僕は思うのですが、いかがでしょうか。

 

働くというのは、人生の大半の選択のはずだ。働く以外の選択肢だってあるし、働き方にだって人の数だけある。サラリーマンという選択を否定するつもりは全くない。主体的に能動的選択でサラリーマンになることは素晴らしいと思う。または自己保全の手段として組織に属し、一定の給与をもらうという形態で生きるのも悪くはないだろう。守るべきもの、愛すべきもの、背負っていく責任があれば大抵は最善の策と言える。けれども、なんとなく、周りに流され、サラリーマンを続けているのはどうだろうか。やりたくもない仕事をやり、なんのスキルも身につかない。組織を離れればなんの汎用性もない人材にしかならず、価値は社会人歴という意味不明な経歴だけ。

そんな人間になりたいのでしょうか。そんなことを考えるのは、バカでしょうか。

 

まさしく今の自分こそが、その思考停止中のサラリーマンの一部であるということに、今現在愕然としているところです。

 

プロフィール

あまりにも体たらくな人生を振り返ってみる。

 幼少期

1991年、北海道に生まれる。

幼少期より東京に強い憧れを抱く。

 

ものづくりが好きで、テレビでわくわくさんを見ながら、工作をするような子供だった。圧倒的なインドア派で、それでもこの頃は友達もいて、ごく普通の子供。

小学二年生になるまでに北海道内を転々とし、小学2年生から札幌の隣町に引っ越す。

小学生

度重なる引越しにより、元々の性質と相まって、極度の人見知りとなる。休み時間はいつも一人で机の上で漫画やイラストを書いて時間が経つのを待つようなそんな小学生時代。嫌な思い出が非常に多く、とにかく集団行動ができない子供だった。そんなこともあり自分の将来に疑問を抱き、校長室に置いてあった13歳のハローワークを読んだりして、将来サラリーマンにならないことを決める。

 

中学生

卓球部に入る。まさしくダサいキモいオタクみたいなイメージの卓球部員。本当は美術部に入ろうかと思ったけど、運動部が良いみたい風潮に流され、ヒエラルキーの最下層に。まったく運動センスはなく、教室でも目立つことはないカーストの最底辺にいた。とにかくこの現状を変えたくて、どこか遠くに行きたい一心で勉強し、札幌の高校へ。

 

高校生

テニス部に入ろうとしたものの、練習についていけず、他の部活にもなんとなく入れなくて気がつけば居場所がどこにもない状態に。このころから自分の社会不適合さに薄々気がつき始める。勉強もパッとせず、図書館で本を読んだり、携帯でネットをしたり。たぶん、この時期から今までライフスタイルは全く変わっていないような気がする。高3になり、文系か理系か決められず、決める意味もわからないものの、東京に行けばなにかが変わる気がして、東京の大学をいくつか受ける。勉強を全くしてないのでもちろん不合格、代々木ゼミナールに入学。

 

浪人時代

予備校には夏前に行かなくなり、家に引きこもってニート状態になる。またもや全く勉強せずに早慶を受けまくり全敗。親の金をドブに捨てつつ、後期に出した横浜国立大学を受けに横浜へ。ちょうど東日本大震災が起きて受験は中止に。受けていたら100%落ちていたので、不謹慎ではあるものの地震のせいという口実に救われた形になった。予備校は正式に辞め、4月からは晴れてニートに。

 

ニート時代

とりあえず短期バイトをしてみたものの、労働環境にすぐに嫌になる。しばらくしたくないと思いながらも求人誌を買いあさっては電話をかけたり、かけなかったり。深夜に起きて、朝寝る生活を繰り返す。重松清の疾走に出てくる兄のようだなと思って、これでボヤ騒ぎなんか起きたら間違いなく自分のせいだろうとか考える。その後ネットカフェのアルバイトに受かるが、自分の社会不適合さを遺憾無く発揮し、周囲との関係が最悪に。辞職する。その後は本格的な引きこもり。深夜にポテトをあげていると、キッチンペーパーに引火し、天井を焦がす。まさに疾走にでてくる兄となり、母親が帰宅後怒鳴り散らしたのにパニック状態となり、そのまま疾走。翌朝帰る。数日後父親が帰ってくることになり、ボヤで焼け焦げた天井は元の通りに母が修理していたが、今の自分を見て父親に怒鳴られるのが怖くなり、父が帰る当日の朝、家出。JR東日本パスで単身東京を目指す。

 

宅浪時代

なんとか東京に着いたはいいものの特に目的もなくぶらぶらと過ごす。所持金も尽きてきた頃、家を契約しようと不動産に行くが、そのまま親に電話することとなり、怒鳴られる。母親に怒られ、家に戻ることに。親が振り込んだ口座から金を引き出し、フェリーで帰港。母親と話し合い、東京で宅浪することに。高田馬場学生寮で、食事付きとのこと。実際は築100年のボロアパートのようなところで、食事も管理人が作る質素なもの。学年ビリから医学部に受かったという本を出している著者に家庭教師になってもらうが、一回2万という高額な授業料に嫌気がさし、2ヶ月で辞めてもらう。その後もぐだぐだとやる気を出したり出さなかったりで受験勉強をする。結局、2度あることは3度あるというのだろう、センター試験は惨敗で、私立一本に絞る。そもそも私立一本で初めから勉強しておくべきなのだが、長年染み付いた貧乏性が、私立大学受験という選択肢を排除してしまうのである。というか親には国立行く姿勢を見せないといけないのが貧乏人の大学受験。実に効率が悪いのだが、私立に絞った結果、半年間勉強していた数学や理科はなんの役にも立たなかった。最終的に受かった大学は英語のみの受験で入れたので、英語のみ勉強していれば現役で受かった気がする。人生のコスパが実に悪いのだが、これは今も相変わらずな気がするのでここでは触れない。私立もなかなか難しく、明治大学中央大学などのいわゆるマーチは惨敗。手応えはあったものの、社会はセンター以外ほとんど無勉強であったし、国語も私立対策はしていないので当然といえば当然。唯一、センター利用で東洋大学に受かったことにわかったのが2月の19日あたり。人生で初めて大学に受かったので、すこぶる嬉しかった。その後慶應環境情報学部の入試があり、合格する。当日は非常にだるくて、受験会場に行くのをやめようかと思っていたが、実際受けてみると非常に手応えがよく、小論文の試験時間が終わった頃には合格を確信していた。一週間後、見事合格がわかる。もちろん、そのまま入学手続きを済ませる。散々親には迷惑をかけたけれど、終わり良ければすべて良し、ホームランをうっとけば失敗はチャラになる理論で、自分を納得させる。今でも自分はこのタイプの思考なので、人間関係を地道に気づいたり、コツコツ頑張ることができない。いわゆるダメ人間。慶應SFC合格は、ある意味人生最悪の失敗だったかもしれない。といっても受かったものは仕方ない。このときはかなり浮かれていたが、そういうダメ人間は、痛い目を見続ける人生を送る羽目になる。

 

大学時代

もういい思い出はまったくない。

大学一年生の頃に大失敗を犯す。

立ち直れないぐらい絶望する。なお、今も継続中。

その後、休学。

休学後は色々と立ち直ろうと努力するが結局は繰り返し。

朝起きて、いや夕方起きて、ダラダラ過ごして、深夜までネットして寝る。

こういうルーティンをほぼ4年繰り返す。正確には半年休学したので4年半。

途中、あまりに暇なのでお笑いの養成所に通うが、大学と同じく、馴染めずに辞める。

なお、元相方は未だに続けている模様。

23歳までに芥川賞を取れなければ死のうと決めていたはずなのに、小説を一本も書ききれないまま、24歳となり、大学卒業。

就活を超適当にする。テレビ局、出版社をメインに受ける。OB訪問も一切やらずに受けてしまったのが今思うと最悪だった。任天堂の最終面接まで行ったのはいい思い出。最終面接までなら他にもスクエニNTTドコモとか。最終まで行って落とされるのはなにか決定的にダメなやつだと判断されてる気がして、すごく落ち込んだ気がする。最終的には産経新聞のカメラマンに内定をもらうが、辞退。某広告系会社の子会社に入社。なんでこんな選択をしたのか、今考えるとありえない。まあ、カメラを触ったこともほとんどなかったので、ある意味よかったのかもしれないが。結局、就活なんてクソだということを肌で実感する。

 

現在

現在、25歳。広告系企業子会社サラリーマン。特技、なし。スキル、なし。実績、なし。幸せ度、10。本当になにももっていない、なにものでもない、ただの人間になってしまった。小学生の頃に恐れていた大人の姿。誇れるのかどうかわからないが、あるのは学歴だけ。慶應義塾大学卒という肩書き。一番いらない、肩書き。とっとと中退すればよかったのだけれど、結局、自分の能力のなさを自覚していたので、いやなにも考えずにとりあえず卒業したのだ。卒論は白紙で出した。まったく意味のない、人生である。

芸人養成所に通っていた話

3年ほど前にいわゆるお笑い芸人の養成所に通っていました。

 

大学に通いながらのWスクールの形ですが、週1回19時からでありましたので、サークル感覚でほとんど負担にもならなかったです。

 

入る前は養成所なんてハードルが高く、どんな場所か全く想像もできなかったのですが、いたって普通の環境でした。

私は中学生ぐらいの頃から生き方について考えており、お笑い芸人という職業に強い関心がありました。

いつかは必ずお笑い芸人になろう、そのために東京に行こうと考えていたものの、なかなか行動力がなく、気がつけば22歳となっていました。

 

22歳は社会的には若者ですが、芸人としてのキャリアを歩み始めるには決して早い方ではありません。

年齢的にはギリギリであり、高い入学金や授業料もあって、かなり大きな決断の末に入学を決めました

 

そもそも大学に入学したのも浪人という名のニート生活を送っていたので20歳と遅く、ふらふらと人生をただ消費していたので、大学も中退しようと考えていました。

大学に入ったのも東京にいって、芸人になるための口実に過ぎなかったと思います。

 

入学すると同じように芸人を目指している同期が多くいました。

元ミュージシャンやアマチュアとしてすでに芸歴を重ねている者もいましたし、高校卒業したての若者やフリーターも大勢いました。

自分と同じような大学生や大学卒業したての人も多かったです。

30過ぎのおじさんや還暦間近のおばさんもいました。

様々な境遇、バックグラウンドを持った人々がいる中で、必ずしも本気で芸人になろうとしていない者も相当数いたと思います。

 

事実、初回の講義日には60人ほどいたのに、次回の講義には50人、1ヶ月もたつと40人ほどになっておりました。

学費は相当高額のはずなのに、です。

また、養成所と言っても講義で何かを教わるというよりは、自分でネタを書いてネタ見せするのが中心であり、養成所以外の時間の使い方がいかに重要であるか問われます。しかし、人生をかけて芸人を目指している者が集まるわりにはネタ自体あまり練られておらず、素人丸出しのクオリティが多かったです。これは自分も含めてです。

 

結局のところ、テレビに映る芸人のイメージそのままで、芸人なんて遊んでふざけているだけみたいな軽い気持ちで取り組んでいる人が多いと感じました。

実際、すべての時間を自分の身を削るぐらいの心意気でネタや稽古に捧げれば、売れる売れないは別として、人前に出て恥ずかしくないレベルにはなれるはずですし、養成所に通った以上そうならないといけないでしょう。

 

半端な気持ちでプロになれるほど甘い世界ではありません。

芸人は厳しい世界だとは言いますが、それはどのような分野でも同じで、半端な軽い気持ちで目指そうとする腑抜けた人間が集まり、半端な覚悟だった自分が圧倒されてしまうだけなのではないでしょうか。

本気で取り組めば、売れるかはわかりませんが、他の芸人志望者を圧倒できるほどのネタは誰でも作れるはずです。

しかし、みんな少しなめていたり、やる気がなかったり、覚悟が足りなかったりするのです。

 

 

これはみんなと言いましたが、自分にも特に当てはまります。

私は大学生という安全地帯から芸人の世界に飛び込もうとした。

そもそもこれは間違いでした。

 

すべての人がそうだとは言いませんが、少なくとも私は甘かった。

 

自分は彼ら(養成所の同期)とは違って失敗しても、途中でやめても帰る場所がある。こんな気持ちが頭のどこかにあったのでしょう。

そんな腑抜けた人間が芸人になれるわけがありませんし、売れることなんてありえません。

 

結局私はコンビを組んでいた相方と解散し、年が明ける頃には養成所に行かなくなりました。

 

それでも養成所に通って芸人を目指していたという経験を存分に利用し、就活などでアピールしました。

このような珍しい経験は往往にして面接官の興味を引き、私はいくつかの企業から内定をいただきました。

実態は半年程度週一度カルチャースクール気分で新宿に出向いていただけの、何も実績も経験も積んでいない大学生なのに。

 

養成所に通っていたことですら、名乗るのがおこがましい。

芸人の卵ではなく、芸人の卵を目指していたにもかかわらず途中で投げ出したのが私です。

本気で芸人を目指している皆さんには同類として思われたくないはずです。

何かを目指すというのは、ただ思うだけではなく、実際の行動と熱意が伴っていなければなりません。

そして熱意の大きさは行動に比例します。

その行動には結果が相対的にどうかはわかりませんが、絶対値として見えてくるでしょう。

番組にどのくらい出たとかは自分だけの努力では決まりませんが、ネタを何本かいたとか、舞台にどのくらい出たとかは自分の行動で決まります。

ネタも舞台も数えるだけしか経験していなかった私の熱意というのは、やはりその程度のものだったのだと思います。

 

なんでもすぐに投げ出してしまうという自分の傾向はすでにこのころには明確に現れてしまいました。

売れなくても芸人という道を歩み続ける人はやはり人間として魅力的です。

フリーターとして数十年間生活を続けるという自分の未来に不安を感じてしまった時点で、私は覚悟が足りませんでした。

 

それでいて今でもテレビで芸人を見ているとうらやましく思ったり、解散した相方がネット番組に出ていたりすると、心の中が張り裂けそうになります。

 

今は社畜としてバイト程度の給料で生活していますが、長くは続かないでしょう。

こうなってくるとやはりあのときの選択について、思いはせてしまうわけです。

 

大学を中退しとけばよかった、とか芸人養成所をやめなければよかったとか。

最近だと別の内定先にいけばよかったとか。

 

こうやってあるはずもない別の選択肢について考えることは無駄でしかないとわかっているにもかかわらず、考えてしまう。

 

人間としての弱さや能力のなさを自覚しながら、養成所に通っていた頃のことを思い返しています。

お金があれば会社辞めますか?

 

サラリーマンとして働くことのメリットとは一体なんでしょうか。

 

トマ・ピケティは「21世紀の資本論」において、数多くの歴史的資料を分析した結果、資本主義下では資本収益率(r)は経済成長率(g)を上回ると主張しているそうです。

 

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つまり、労働は投資を上回ることは決してないわけです。

労働するより投資したほうが経済的にははるかに豊かになれるので、この事実は頑張るだけ報われるという資本主義の根本的な考えを破壊することになるはずでした。

しかし、この事実が広く世界中に知れ渡っても一向にして就業志願者の数は減りませんし、サラリーマンが一斉に会社を辞めたという話は聞きません。辞めさせられた話はよく耳にしますが。

 

もし家畜として飼われている羊を羊小屋から解放してあげたとしても、彼らはおそらく羊小屋へ戻ってくるでしょう。あるいは戻らなかった羊たちは自分で狩りをする能力もなく、餓死してしまうかもしれません。

 

となると社畜として働くサラリーマンはリストラされるとまた会社員に戻ろうとするか、餓死してしまうのでしょうか。

前者は大半の方に当てはまるかもしれませんが、後者はどうでしょう。

今の日本で餓死することは0ではないにしても、そんなに恐れなくても良さそうです。

一方で自分で狩りをする能力に関しては自信がない方が多いと思います。

自分もそうです。

学歴や大企業の社名に惑わさられて自分の能力を客観的に直視できないと、錯覚に陥りますが、明日会社をクビになって生活費を確保できる汎用性の高い能力を身につけているひとはそう多くないはずです。

 

私は慶応義塾大学という世間一般に見てそこそこの大学出身ですが、決して頭はよくないですし、能力は高くないです。

能力とは人脈を築くことのできる行動力やコミュニケーション能力、リーダーシップ、集中力、マネジメントの力や人柄、発想力、技術力その他さまざまな人間力が問われます。

このような能力はむしろ学校教育の中より、社会の中で育まれるものだとも言えます。

勉強にうまく適応できず学校教育からドロップアップしたような人の中には、社会適応能力が高い場合も多く、社会的成功をおさめる方々も多くいるのは事実です。

 

で、あればやはり能力を磨くことが大事なわけですが、リーダーシップや行動力は幼少期からの環境や長い鍛錬の末磨かれ、また人柄も含め元々のポテンシャルにも由来します。

となると、自分の能力が凡、凡以下と感じている、明日クビになったら餓死しちゃうかもって思っている社畜はどうすればよいのでしょうか。

このまま生きることになんの不満も抱かず、幸せであれば無問題ですが、日々死に際限界で会社にしがみついている場合、辞めるにも辞めれません。

しかし、日曜日の夜が憂鬱になるようであれば、高橋さんの二の舞になりかねません。

 

あいにく私はまだ自分が凡であるとか、凡以下であるというほどの仕事をしていないので、そういう意味では会社員であることに不満を感じてはいません。しかし一方で、全くこの会社で仕事をしたいとは思えないので、そう近くないうちに退職する運びになるでしょう。

 

私が会社をまだ辞めないのはお金が理由です。

今すぐ空から100万円が降ってくれば、少し悩んで辞めるでしょう。

300万降ってくれば1週間後には退職届を出してますし、1000万であれば即日辞めます。

私は能力はないので次の日から無収入ですが、とりあえずはプログラミングをしこしこと勉強していると思います。少し金銭的な余裕があればバイトをするにしてもキャリアアップにつながる仕事ができますし、自分への投資としてスキルアップも可能です。

お金が与えてくれる少なくとも餓死することはないだろうという楽観的観測が私に退職という踏ん切りをつけてくれます。

 

自分の人生を考えたときにこのまま会社に居続ける人生というのは想像ができません。25歳という新卒にしては相当遅い年齢の私にとって時間は何よりも貴重です。その貴重な時間を消費している感覚は、相当な焦りと苦しみを生みます。25歳の時間に対する対価として、納得のできる経験を積む必要があります。

 

あなたはお金があれば会社を辞めますか?

辞めるとしたらいくらですか?